「夜久勉」の版間の差分
(→エピソード) |
(→略歴) |
||
21行目: | 21行目: | ||
1959年(昭和34年)、[[小出英男]]、長井勝一と共に「三洋社」を設立、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』などを出版<ref name="garo">長井勝一『「ガロ」編集長』(筑摩書房, 1982)</ref>。 | 1959年(昭和34年)、[[小出英男]]、長井勝一と共に「三洋社」を設立、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』などを出版<ref name="garo">長井勝一『「ガロ」編集長』(筑摩書房, 1982)</ref>。 | ||
1976年(昭和51年)8月、[[日本文芸社]]の[[夜久勉]]が死去。[[兵頭式郎]]が社長に<ref name="zenkokusyuppann30"></ref>。 | 1976年(昭和51年)8月、[[日本文芸社]]の[[夜久勉]]が死去。[[兵頭式郎]]が社長に<ref name="zenkokusyuppann30"></ref>。 |
2015年11月4日 (水) 12:39時点における版
やく つとむ、1922年(大正11年)~1976年(昭和51)。『風俗草紙』の創刊に際し、須磨利之を曙書房から引き抜いたとされる実業家。日本文芸社の初代社長。長井勝一、小出英男、久保藤吉らとつながっていた。
概要
仕掛人。編集者。ゾッキ本などを取り扱う小出版社からスタートし、後に日本文芸社の社長に。日本雑誌協会会員。神田でパチンコ屋も経営していた。1953年(昭和28年)に日本特集出版社名で『風俗草紙』を氏家富良を編集人として創刊。この時、奇譚クラブの編集人であった須磨利之を曙書房から引き抜いたとされる[1]。『ガロ』の編集長であった長井勝一、大洋図書を設立した 小出英男、久保書店の久保藤吉らとつながっていた。
別名
略歴
1946年(昭和21年)6月、兵庫県姫路駅前で「新興書房」を開設[2][3]。
1948年(昭和23年)10月、上京。神保町に土地、家屋を購入にして雑誌・書籍の仕入れと特価本の取り扱いを始める[3]。「新興書房」は実兄の夜久義重が引き継ぐ[2]。
1948年(昭和23年)4月1日、夜久勉が神田神保町に『日本文芸社』を設立。山版物の発行と卸業(丸一特価書籍)、小売業(日本読書普及会と夜久書店)を開始[2]。
1948年(昭和23年)頃、大衆遊技場『人生劇場』の開設[2]
1953年(昭和28年)7月、氏家富良を編集長に据え日本特集出版社名で『風俗草紙』を創刊。奇譚クラブの編集人であった須磨利之を曙書房から引き抜いたとされる[1]。
1956年(昭和31年)1月、須磨利之を編集長に据え『かっぱ』(後の『裏窓』)が久保書店から創刊。背景に夜久勉と久保藤吉の小出版社同士の関係があったことが指摘されている[1]。
1959年(昭和34年)1月、「株式会社日本文芸社」を会社登記[2]。
1959年(昭和34年)、小出英男、長井勝一と共に「三洋社」を設立、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』などを出版[4]。
1976年(昭和51年)8月、日本文芸社の夜久勉が死去。兵頭式郎が社長に[2]。
エピソード
- 1959年(昭和34年)頃、神田に土地を相当所有しており、何件ものパチンコ屋を経営していた[4]。
- 神保町に「人生劇場」というパチンコ屋を持っていた[5]。
- 「夜久さんはやせて背が高かったし、英男くんは太っていた」[4]。
- 夜久勉の養子が夜久弘(旧姓藤原)で編集人・文筆家。『「COMICばく」とつげ義春』(福武書店, 1989)など[6]。
代表作
引用資料
注釈