「緊美研」の版間の差分
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1970年中期、緊縛師[濡木痴夢男]]、写真家[[枷井克哉]]、同[[不二秋夫]]が[[豊幹一郎]]というユニット名で、[[サン出版]]などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮り始める。当時、「[[三世社]]の濡木」「[[サン出版]]の[[美濃村晃]]」といった棲み分けがあったが、美濃村の病気のため、[[サン出版]]は[[豊幹一郎]]という名前を使い、「[[三世社]]の濡木」のイメージを避けた。 | 1970年中期、緊縛師[濡木痴夢男]]、写真家[[枷井克哉]]、同[[不二秋夫]]が[[豊幹一郎]]というユニット名で、[[サン出版]]などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮り始める。当時、「[[三世社]]の濡木」「[[サン出版]]の[[美濃村晃]]」といった棲み分けがあったが、美濃村の病気のため、[[サン出版]]は[[豊幹一郎]]という名前を使い、「[[三世社]]の濡木」のイメージを避けた。 | ||
1970年(昭和45年)から[[豊幹一郎]]ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体となる<ref group="note"> | 1970年(昭和45年)から[[豊幹一郎]]ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体となる<ref group="note">(この1970年は早すぎる。前後の関係とあわない。追跡調査が必要。緊縛師p279にある。読み方によっては、70年からある「ゆたか編集室」に、枷井、不二、須賀が非常勤でメンバとなっており、70年代後半から豊幹一郎ユニットとして活動したともとれる)</ref>。 | ||
2009年12月2日 (水) 17:35時点における版
『緊縛美研究会』の略。
概要
1970年中期、緊縛師[濡木痴夢男]]、写真家枷井克哉、同不二秋夫が豊幹一郎というユニット名で、サン出版などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮り始める。当時、「三世社の濡木」「サン出版の美濃村晃」といった棲み分けがあったが、美濃村の病気のため、サン出版は豊幹一郎という名前を使い、「三世社の濡木」のイメージを避けた。
1970年(昭和45年)から豊幹一郎ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体となる[note 1]。
1985年(昭和60年)10月27日、不二秋夫が中心となり『杉下なおみの会』第1回会合を開く。第3回目から『緊縛美研究会』と名称を変更。
現在も濡木痴夢男を中心に例会が定期的に開かれている(2009.12.2)
ノート
- ↑ (この1970年は早すぎる。前後の関係とあわない。追跡調査が必要。緊縛師p279にある。読み方によっては、70年からある「ゆたか編集室」に、枷井、不二、須賀が非常勤でメンバとなっており、70年代後半から豊幹一郎ユニットとして活動したともとれる)
エピソード
- 「緊美研ビデオ」を初めて扱ってくれたのは芳賀書店