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1950年(昭和25年)、『新青年』廃刊後、[[高橋鐵]]に誘われて[[あまとりあ社]]に入社。やがて『[[あまとりあ]]』の編集長。
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1951年(昭和26年)4月21日、『[[あまとりあ]]』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「'''あまとりあ祭'''」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には[[高橋鐵]]、[[伊藤晴雨]]、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が<ref name="kaikoroku">[中田雅久]]『'''[[あまとりあ]]回顧録'''』in 藤本義一編『'''[http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=iq05-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=B000J8XBOU あまとりあ傑作選]'''』(東京スポーツ新聞社, 1977)</ref>。
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1955年(昭和30年)8月、『[[あまとりあ]]』廃刊。
1955年(昭和30年)8月、『[[あまとりあ]]』廃刊。

2011年3月11日 (金) 18:36時点における版

なかた まさひさ、1922年(大正11年)-

活動内容

編集人。

別名

略歴

1922年(大正11年)、神戸に生まれる。

1940年代、博友社の浅井康男に誘われ同社入社。『新青年』の編集。

1950年(昭和25年)、『新青年』廃刊後、高橋鐵に誘われてあまとりあ社に入社。やがて『あまとりあ』の編集長。

1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵伊藤晴雨、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[1]

1955年(昭和30年)8月、『あまとりあ』廃刊。

1958年(昭和33年)8月、『マンハント』日本版の創刊

1958年(昭和33年)、『裏窓』の臨時増刊号、日本のミステリ特集『耽奇小説』シリーズを編集[2]

1961年(昭和36年)、伊藤晴雨の葬儀に参列。他に高橋鐵須磨利之上田青柿郎など[3]

1964年(昭和39年)、『マンハント』1月号で廃刊。この頃中田雅久あまとりあ社を退社。河出書房新社に移る。

1969年(昭和44年)、7月創刊の三崎書房での『えろちか』のプランニングを最後に、出版界を去る[2]

エピソード

  • 松村喜雄や都筑道夫と交流。
  • 須磨利之はその中田雅久のとなりに机を置き、「裏窓」の編集を始めたのです。」[4]

作品

編集に関わった雑誌

脚注

  1. 中田雅久あまとりあ回顧録』in 藤本義一編『あまとりあ傑作選』(東京スポーツ新聞社, 1977)
  2. 2.0 2.1 古本夜話10 『マンハント』編集長 中田雅久 
  3. 『巨星落ちたり-妖美画家 伊藤晴雨伝』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
  4. 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十七回

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