「鱒書房」の版間の差分

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東京都中央区日本橋通1丁目4番地 親和会館
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東京都千代田区内幸町2-3幸ビル<ref group="注">[[菊池寛]]の文藝春秋社と同じビル</ref>
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東京都豊島区池袋2-55-2 鈴木ビル4F '''株式会社[[インテルフィン]]'''
東京都豊島区池袋2-55-2 鈴木ビル4F '''株式会社[[インテルフィン]]'''
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*[[式場隆三郎]]『'''処女のこころ'''』([[鱒書房]], 1940)
*[[式場隆三郎]]『'''処女のこころ'''』([[鱒書房]], 1940)
*[[式場隆三郎]]『'''人妻の教養'''』([[鱒書房]], 1940)
*[[式場隆三郎]]『'''人妻の教養'''』([[鱒書房]], 1940)
*[[式場隆三郎]]『'''美術の裏窓'''』([[鱒書房]], 1955.4.25)(発行人:[[増永善吉]])


==エピソード==
==エピソード==
*[[増永善吉]]がシューベルト好きだったために、『[[鱒書房]]』という名がつけられた<ref name="hanada">[http://www.zassi.net/contents/fuunroku.html 花田紀凱の戦後雑誌風雲録]</ref>。
*[[増永善吉]]がシューベルト好きだったために、『[[鱒書房]]』という名がつけられた<ref name="hanada">[http://www.zassi.net/contents/fuunroku.html 花田紀凱の戦後雑誌風雲録]</ref>。
*[[菊池寛]]の文藝春秋社と[[鱒書房]]は同じ内幸町の幸ビルにあり、[[菊池寛]]と[[増永善吉]]は旧知の仲であった<ref name="hanada"></ref>。
*[[菊池寛]]の[[文藝春秋社]]と[[鱒書房]]は同じ内幸町の幸ビルにあり、[[菊池寛]]と[[増永善吉]]は旧知の仲であった<ref name="hanada"></ref>。
*内幸町の幸ビルは戦火を逃れたビルの1つであった。ここにはビアホールの「ニユートーキヨー」も入っていた。ネット上には「ニユートーキヨー」が[[鱒書房]]のスポンサーであったような記述が見受けられるが真偽は定かで無い。
*内幸町の[[幸ビル]]は戦火を逃れたビルの1つであった。ここにはビアホールの「ニユートーキヨー」も入っていた。ネット上には「ニユートーキヨー」が[[鱒書房]]のスポンサーであったような記述が見受けられるが真偽は定かで無い。
 
== 引用文献==
== 引用文献==
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2019年6月29日 (土) 17:08時点における最新版

夫婦生活1950年(昭和25年)1月号

ますしょぼう

概説

1939年(昭和14年)に増永善吉により設立された出版社。戦中は活動を休止するも、終戦直前に再開。終戦直後に満州事変以来の日本の裏面史を描いた森正蔵『旋風二十年』が大ヒット。1949年(昭和24年)には婦人雑誌ブームの火付け役でもある『夫婦生活』を創刊している。高倉一は『夫婦生活』の編集をおこなっていた。『都山書房』『ビデオ出版』と社名変更をおこない、現在『株式会社インテルフィン』としてアダルト関係の出版を続けている。

歴史

1939年(昭和14年)、増永善吉により創立。『ノロ高地』がヒット。

1945年(昭和20年)8月8日、敗戦直前に株式会社鱒書房として活動再開。

1945年(昭和20年)12月、森正蔵『旋風二十年』発行。翌年の下巻と合わせて80万冊[注 1]を出す大ヒット[注 2][1]

1948年(昭和23年)、菊池寛から『』の出版権を譲り受ける。第1号「五大作家恋愛小説特集」は売れなかったが、第2号「恋愛サロン」、第3号「美人画報」、第4号「夫婦の性典」、第5号「夫婦の性典」と路線変更するにつれて人気を集める[2][1]

1949年(昭和24年)6月、『』を『夫婦生活』と改題。

1956年(昭和31年)頃、『都山書房』と社名変更。

1967年(昭和42年)7月9日、『ビデオ出版』と社名変更。

2010年(平成22年)4月28日、『株式会社インテルフィン』と商号変更。

所在地

東京都中央区日本橋通1丁目4番地 親和会館

東京都千代田区内幸町2-3幸ビル[注 3]

東京都豊島区池袋2-55-2 鈴木ビル4F 株式会社インテルフィン

代表的な雑誌・書籍

雑誌

書籍

エピソード

  • 増永善吉がシューベルト好きだったために、『鱒書房』という名がつけられた[1]
  • 菊池寛文藝春秋社鱒書房は同じ内幸町の幸ビルにあり、菊池寛増永善吉は旧知の仲であった[1]
  • 内幸町の幸ビルは戦火を逃れたビルの1つであった。ここにはビアホールの「ニユートーキヨー」も入っていた。ネット上には「ニユートーキヨー」が鱒書房のスポンサーであったような記述が見受けられるが真偽は定かで無い。

引用文献

注釈

  1. 50万との記載もあり。
  2. 誠文堂新光社の小川菊松『日米会話手帳』と共に戦後まもない二大ベストセラー。
  3. 菊池寛文藝春秋社鱒書房日本社は同じビル

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