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'''せだ かいいち'''、1933年(昭和8年)-??。1960年代後半から活動した緊縛師、編集人。リアリティーを追求したマニアの同好的雑誌の出版にこだわり多くの雑誌の創刊に関わる。荒川也寸志の名で絵師としても地位を確立。
 
[[画像:KaiichiSeta.jpg|250px|thumbnail|世田介一。[[異喜域]]特別写録号1989年より]]
'''せだ かいいち'''、1933年(昭和8年)-??。1960年代中頃から[[奇譚クラブ]]に投稿を開始したSM愛好家。[[奇譚クラブ]]終刊後、自ら「[[SUN&MOON]]」「[[SMミラージュ]]」他を創刊。絵は[[荒川也寸志]]の名で。
==概要==
==概要==
編集人。絵師。文筆家。緊縛師。1960年代後半から[[奇譚クラブ]]に[[世田介一|中宮栄]]の名で投稿を始めたマニアで、[[奇譚クラブ]]終刊後も他のSM雑誌に投稿すると同時に、自ら1977年(昭和52年)にマニア向けの少部数雑誌[[SUN&MOON ]]を創刊した。その後も、数多くの雑誌の発行を続けたが、一貫してコアなマニアのみを対象とした同人誌的な雑誌を目指しており、[[奇譚クラブ]]のある側面を後世につなげた人物とも言える。[[荒川也寸志]]の名で絵師としても活躍していた。
編集人。絵師。文筆家。緊縛師。1960年代後半から[[奇譚クラブ]]に[[世田介一|中宮栄]]の名で投稿を始めたマニアで、[[奇譚クラブ]]終刊後も他のSM雑誌に投稿すると同時に、自ら1977年(昭和52年)にマニア向けの少部数雑誌[[SUN&MOON ]]を創刊した。その後も、数多くの雑誌の発行を続けたが、一貫してコアなマニアのみを対象とした同人誌的な雑誌を目指しており、[[奇譚クラブ]]のある側面を後世につなげた人物とも言える。[[荒川也寸志]]の名で絵師としても活躍していた。


==別名==
==別名==
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Kai-ichi_Seda Kai-ichi Seda]、[[荒川也寸志]]、中宮栄、中宮さかえ、諏訪大路健、諏訪久三、佐伯、豊島園近、多貫欣、左祺兆<ref name="nue">[http://smzero.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/43424/?sid=93b25b755a15514c13429205d1217a40c44995dd ネットの書き込みより]</ref>、笹田介一<ref group="注">[[SUN&MOON]]創刊号『リレーカメラハント 縛絆記』は本文が「笹田介一」で目次が「[[世田介一]]」となっている。文体は[[世田介一]]のそれと似ている。</ref>
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Kai-ichi_Seda Kai-ichi Seda]、[[荒川也寸志]]、[[中宮栄]]、中宮さかえ、諏訪大路健、諏訪久三、佐伯、豊島園近、[[多貫欣]]、左祺兆<ref name="nue">[http://smzero.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/43424/?sid=93b25b755a15514c13429205d1217a40c44995dd ネットの書き込みより]</ref>、笹田介一<ref group="注">[[SUN&MOON]]創刊号『リレーカメラハント 縛絆記』は本文が「笹田介一」で目次が「[[世田介一]]」となっている。文体は[[世田介一]]のそれと似ている。</ref>、[[礎村嘉次郎]]


==略歴==
==略歴==
1966年(昭和41年)、[[世田介一|中宮栄]]の名で[[奇譚クラブ]]に投稿を始める<ref group="注">この2年前に1回目の投稿があるようだが、調査中。</ref>。
===マニア投稿時代===
1964年(昭和39年)11月20日、「緊縛初夜」<ref>『[[異喜域]]特号 光輪 HALO』([[日月新社]])1989年(昭和64年)</ref>
 
1966年(昭和41年)、[[中宮栄]]の名で[[奇譚クラブ]]に投稿を始める<ref group="注">この2年前に1回目の投稿があるようだが、調査中。</ref>。
 
1972(昭和47年)11月1日、『'''[[ラブハンター]]'''』創刊号に[[豊島園近]]『'''再初夜'''』でSM小説、イラスト、写真。


===[[エド・プロダクツ]]時代===
1977年(昭和52年)、この頃より[[世田介一]]を名のる。
1977年(昭和52年)、この頃より[[世田介一]]を名のる。


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1978年(昭和53年)2月25日、[[サンアンドムーン]]と誌名を変更し[[絃映社]]から出版。編集人は[[浦戸宏]]。まもなく意見の対立<ref group="注">1989年(昭和64年)1月15日発行の『[[異喜域]]特号 光輪 HALO』([[日月新社]])の[http://nawa-art.com/etc/iki198901/iki198901_082.html 編集後記]にそのことが書かれている。それによると「編集長が何等断りもなく(表紙の)描写人物を白抜きし・・・それを黙認したH社長に対しても、いまだに本心怨恨をもち続けています。」とある。</ref>から[[世田介一]]が離脱<ref group="注">[[サンアンドムーン]]はその後も[[浦戸宏]]が発行を続け、やがて[[えすとえむ]]にさらに誌名変更</ref>。
1978年(昭和53年)2月25日、[[サンアンドムーン]]と誌名を変更し[[絃映社]]から出版。編集人は[[浦戸宏]]。まもなく意見の対立<ref group="注">1989年(昭和64年)1月15日発行の『[[異喜域]]特号 光輪 HALO』([[日月新社]])の[http://nawa-art.com/etc/iki198901/iki198901_082.html 編集後記]にそのことが書かれている。それによると「編集長が何等断りもなく(表紙の)描写人物を白抜きし・・・それを黙認したH社長に対しても、いまだに本心怨恨をもち続けています。」とある。</ref>から[[世田介一]]が離脱<ref group="注">[[サンアンドムーン]]はその後も[[浦戸宏]]が発行を続け、やがて[[えすとえむ]]にさらに誌名変更</ref>。
===[[大共社]]時代===
1978年(昭和53年)、[[スペシャリーS&M]]([[日月舎]])創刊。意見の対立から7号を最後に[[世田介一]]が離脱<ref group="注">[[スペシャリーS&M]]はその後も[[志摩紫光|山谷秋人]]が発行所を[[大共社]]に変え出版を続ける。</ref>。。


1978年(昭和53年)[[スペシャリーS&M]]([[日月舎]])創刊。意見の対立から7号を最後に[[世田介一]]が離脱<ref group="注">[[スペシャリーS&M]]はその後も[[志摩紫光|山谷秋人]]が発行所を[[大共社]]に変え出版を続ける。</ref>。。
1979年(昭和54年)7月31日、「[[大共社]]と私及び[[日月舎]]の共栄共存の提携関係は廃絶」<ref>[[S&M縄美人]]創刊号</ref>


1979年(昭和54年)9月、[[S&Mスナイパー]]創刊号に[[世田介一|荒川也寸志]]の作品。
1979年(昭和54年)9月、[[S&Mスナイパー]]創刊号に[[世田介一|荒川也寸志]]の作品。


1979年(昭和54年)頃?、この頃に[[レジェンドSM]]を創刊したと思われる。
1979年(昭和54年)頃?、この頃に[[レジェンドSM]]を創刊したと思われる。
===[[エドプロ]]時代===
1980年(昭和55年)2月25日、[[THE HIGH SUN&MOON]]創刊。


1980年(昭和55年)、[[ともえ・えがら]]([[エド・プロダクツ]])創刊。
1980年(昭和55年)、[[ともえ・えがら]]([[エド・プロダクツ]])創刊。
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1980年(昭和55年)、[[異喜域]]([[日月舎]])創刊。
1980年(昭和55年)、[[異喜域]]([[日月舎]])創刊。


1980年(昭和55年)[[にちげつクラブ]]([[エド・プロダクツ]])創刊。
1980年(昭和55年)11月、[[にちげつクラブ]]([[エド・プロダクツ]])創刊。


1982年(昭和57年)、[[SPROUT]]([[近代書房]])創刊。
1982年(昭和57年)、[[SPROUT]]([[近代書房]])創刊。
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1985年(昭和60年)11月5日、[[Pジャンク]]の別冊として[[New Sun&Moon]]([[さーくる社]])創刊。
1985年(昭和60年)11月5日、[[Pジャンク]]の別冊として[[New Sun&Moon]]([[さーくる社]])創刊。
1987年(昭和62年)12月5日、『[[スペシャルムードライフ]](SML)』』([[さーくる社]])創刊。


1988年(昭和63年)7月、『[[異喜域]]ANIMATOアニマート』([[さーくる社]])創刊。
1988年(昭和63年)7月、『[[異喜域]]ANIMATOアニマート』([[さーくる社]])創刊。
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1990年前後?、『[[サディスティックレポート]]』発行。
1990年前後?、『[[サディスティックレポート]]』発行。
1992年(平成4年)3月、[[吐夢書房]]より『'''[[スプロウト]]'''』を[[左祺兆]]名で創刊。


1995年(平成7年)11月、[[ロン・ポアン]]([[笠倉出版]])の創刊に関与。
1995年(平成7年)11月、[[ロン・ポアン]]([[笠倉出版]])の創刊に関与。
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*『嬲巣』が仕事場兼調教部屋。
*『嬲巣』が仕事場兼調教部屋。
*世田介一『気癒力―自然医学は、がん・糖尿病などの難病も治すことができる! 』(騎虎書房, 1997)は同姓同名の別人の作品との指摘があったため削除。
*世田介一『気癒力―自然医学は、がん・糖尿病などの難病も治すことができる! 』(騎虎書房, 1997)は同姓同名の別人の作品との指摘があったため削除。
*2018年頃に[[風俗資料館]]で[[魁]]が出会っている<ref>[http://kaibd.livedoor.biz/archives/52478034.html 魁ブログ☆AV監督☆縛師「荒川也寸志(世田介一)」]</ref>


==代表作==
==代表作==
===[[緊縛教材(印刷物)]]===
===[[緊縛教材(印刷物)]]===
*[[世田介一|荒川也寸志]]『縛り方教室 2』[[別冊SMファン]]1978年(昭和52年)1号
*[[世田介一|荒川也寸志]]『縛り方教室 2』[[別冊SMファン]]1978年(昭和52年)1号
*[[世田介一]]・[[志摩紫光]]『'''習うより慣れろ<緊縛手引き>'''』[[S&M縄美人]]創刊号。
===書籍===
===書籍===
*[[世田介一]]『憑かれた人々』([[日月新社]], 1986)
*[[世田介一]]『憑かれた人々』([[日月新社]], 1986)
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*『'''B嬢'''』(ビデオミラージュ社) (主演:B嬢)
*『'''B嬢'''』(ビデオミラージュ社) (主演:B嬢)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 1 閻羅部屋嗜虐戯'''』([[さーくる社]]) (主演:堀野敦子)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 1 閻羅部屋嗜虐戯'''』([[さーくる社]]) (主演:堀野敦子)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 2 耽溺! 被虐の天女'''』([[さーくる社]]) (D-33, 企画:[[世田介一]]、実践:[[佐久間一韋]]、縄木縛太郎、収録:伊東洋一、[[世田介一]]、出演:遠藤道子)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 2 耽溺! 被虐の天女'''』([[さーくる社]]) (D-33, 企画:[[世田介一]]、実践:[[佐久間一韋]]、縄木縛太郎、収録:[[伊東洋一]]、[[世田介一]]、出演:遠藤道子)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 3 忍従妻攻虐愉戯'''』([[さーくる社]]) (出演:京洛雅江)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 3 忍従妻攻虐愉戯'''』([[さーくる社]]) (出演:京洛雅江)
*『'''異喜◆域シリーズN0. 4 肛虐羞恥の惑乱'''』([[さーくる社]]、制作・販売:[[エド・プロダクツ|エドプロ]]) (EP-A06, 出演:本間明子、高柳みどり、[[志摩紫光]])
*『'''異喜◆域シリーズN0. 4 肛虐羞恥の惑乱'''』([[さーくる社]]、制作・販売:[[エド・プロダクツ|エドプロ]]) (EP-A06, 出演:本間明子、高柳みどり、[[志摩紫光]])
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*[[世田介一|多貫欣]]『タヌキンのアイデアシリーズ』[[SMセレクト]]1976年(昭和51年)11月号
*[[世田介一|多貫欣]]『タヌキンのアイデアシリーズ』[[SMセレクト]]1976年(昭和51年)11月号
*[[世田介一|多貫欣]]『たんてい』[[SMセレクト]]1976年(昭和51年)12月号
*[[世田介一|多貫欣]]『たんてい』[[SMセレクト]]1976年(昭和51年)12月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]](読者投稿傑作展)[[SMファン]]1976年(昭和51年)2月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『野久座』[[別冊SMファン]]1977年(昭和52年)1月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『野久座』[[別冊SMファン]]1977年(昭和52年)1月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『荒川也寸志の世界』[[SMマガジン]]1977年(昭和52年)2月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『荒川也寸志の世界』[[SMマガジン]]1977年(昭和52年)2月号
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*[[世田介一| 荒川也寸志]]『牛女被虐巡訪』[[SMマガジン]]1981年(昭和56年)8月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『牛女被虐巡訪』[[SMマガジン]]1981年(昭和56年)8月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『特命社員』[[SMマガジン]]1981年(昭和56年)10月号
*[[世田介一| 荒川也寸志]]『特命社員』[[SMマガジン]]1981年(昭和56年)10月号
==ギャラリー==
<gallery>
画像:YasuhiArakasa01.png|[[荒川也寸志]] 『'''あなぐら・セラ'''』[[SMクラブ]]1979年(昭和54年)7月号より。
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===特集===
===特集===
*『'''光輪 荒川也寸志描耽集'''』1989年(昭和64年)1月15日
*『'''光輪 荒川也寸志描耽集'''』1989年(昭和64年)1月15日
===写真集===
*[[世田介一| 荒川也寸志]]写真集『'''ともこ 妖しさの彩り'''』([[たざわ書房]], 1982)
*『'''SMマニア絵師 [[荒川也寸志]] 描耽集'''』(TIGHT, 2014.11)


== 引用文献==
== 引用文献==
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[[浦戸宏]]
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2024年1月29日 (月) 10:16時点における最新版

世田介一。異喜域特別写録号1989年より

せだ かいいち、1933年(昭和8年)-??。1960年代中頃から奇譚クラブに投稿を開始したSM愛好家。奇譚クラブ終刊後、自ら「SUN&MOON」「SMミラージュ」他を創刊。絵は荒川也寸志の名で。

概要

編集人。絵師。文筆家。緊縛師。1960年代後半から奇譚クラブ中宮栄の名で投稿を始めたマニアで、奇譚クラブ終刊後も他のSM雑誌に投稿すると同時に、自ら1977年(昭和52年)にマニア向けの少部数雑誌SUN&MOON を創刊した。その後も、数多くの雑誌の発行を続けたが、一貫してコアなマニアのみを対象とした同人誌的な雑誌を目指しており、奇譚クラブのある側面を後世につなげた人物とも言える。荒川也寸志の名で絵師としても活躍していた。

別名

Kai-ichi Seda荒川也寸志中宮栄、中宮さかえ、諏訪大路健、諏訪久三、佐伯、豊島園近、多貫欣、左祺兆[1]、笹田介一[注 1]礎村嘉次郎

略歴

マニア投稿時代

1964年(昭和39年)11月20日、「緊縛初夜」[2]

1966年(昭和41年)、中宮栄の名で奇譚クラブに投稿を始める[注 2]

1972(昭和47年)11月1日、『ラブハンター』創刊号に豊島園近再初夜』でSM小説、イラスト、写真。

エド・プロダクツ時代

1977年(昭和52年)、この頃より世田介一を名のる。

1977年(昭和52年)3月1日、SUN&MOON(日月舎)を創刊[注 3]

1978年(昭和53年)2月25日、サンアンドムーンと誌名を変更し絃映社から出版。編集人は浦戸宏。まもなく意見の対立[注 4]から世田介一が離脱[注 5]

大共社時代

1978年(昭和53年)、スペシャリーS&M(日月舎)創刊。意見の対立から7号を最後に世田介一が離脱[注 6]。。

1979年(昭和54年)7月31日、「大共社と私及び日月舎の共栄共存の提携関係は廃絶」[3]

1979年(昭和54年)9月、S&Mスナイパー創刊号に荒川也寸志の作品。

1979年(昭和54年)頃?、この頃にレジェンドSMを創刊したと思われる。

エドプロ時代

1980年(昭和55年)2月25日、THE HIGH SUN&MOON創刊。

1980年(昭和55年)、ともえ・えがら(エド・プロダクツ)創刊。

1980年(昭和55年)、異喜域(日月舎)創刊。

1980年(昭和55年)11月、にちげつクラブ(エド・プロダクツ)創刊。

1982年(昭和57年)、SPROUT(近代書房)創刊。

1983年(昭和58年)2月15日、『SMミラージュ』(群雄新社)創刊。

1985年(昭和60年)11月5日、Pジャンクの別冊としてNew Sun&Moon(さーくる社)創刊。

1987年(昭和62年)12月5日、『スペシャルムードライフ(SML)』』(さーくる社)創刊。

1988年(昭和63年)7月、『異喜域ANIMATOアニマート』(さーくる社)創刊。

1989年(昭和64年)1月15日、『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)。

1990年前後?、『サディスティックレポート』発行。

1992年(平成4年)3月、吐夢書房より『スプロウト』を左祺兆名で創刊。

1995年(平成7年)11月、ロン・ポアン(笠倉出版)の創刊に関与。

エピソード

  • 世田介一を縦書きにすると「世界一」となる。
  • 『嬲巣』が仕事場兼調教部屋。
  • 世田介一『気癒力―自然医学は、がん・糖尿病などの難病も治すことができる! 』(騎虎書房, 1997)は同姓同名の別人の作品との指摘があったため削除。
  • 2018年頃に風俗資料館が出会っている[4]

代表作

緊縛教材(印刷物)

書籍

ビデオ

雑誌

ギャラリー

特集

  • 光輪 荒川也寸志描耽集』1989年(昭和64年)1月15日

写真集

引用文献

注釈

  1. SUN&MOON創刊号『リレーカメラハント 縛絆記』は本文が「笹田介一」で目次が「世田介一」となっている。文体は世田介一のそれと似ている。
  2. この2年前に1回目の投稿があるようだが、調査中。
  3. 世田介一は他に、笹田介一、中宮さかえ、多貫欣の名前で登場。六本木薫も写真、文を寄稿。
  4. 1989年(昭和64年)1月15日発行の『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)の編集後記にそのことが書かれている。それによると「編集長が何等断りもなく(表紙の)描写人物を白抜きし・・・それを黙認したH社長に対しても、いまだに本心怨恨をもち続けています。」とある。
  5. サンアンドムーンはその後も浦戸宏が発行を続け、やがてえすとえむにさらに誌名変更
  6. スペシャリーS&Mはその後も山谷秋人が発行所を大共社に変え出版を続ける。
  7. SMミラージュが1983年(昭和58年)のみの発行なので、この頃と思われる。

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