「観音劇場」の版間の差分

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==歴史==
==歴史==
1917年(大正6年)、同年にオープンした東京・浅草公園六区の[[観音劇場]]の経営を'''[[曾我廼家五九郎]]'''<ref group="注">1876年(明治9年)生まれ。[[壮士芝居]]を経て1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「[[曾我廼家五九郎]]」を名のる。独立して一座を構え、初期のサイレント映画に主演。</ref>がまかされる。
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1920年代?、浅草[[観音劇場]]で'''[[曾我廼家五九郎]]'''が『'''[[人肉の市]]'''』を舞台化<ref name="seieki10">[[伊藤晴雨]]『'''非小説 性液(十)'''』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195411/01/061.html p68]</ref><ref name="seieki11">[[伊藤晴雨]]『'''非小説 性液(十一)'''』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195412/053.html p169]</ref>。

2015年1月10日 (土) 15:55時点における最新版

浅草観音劇場での『人肉の市』。伊藤晴雨非小説 性液(十一)奇譚クラブ1954年(昭和29年)12月号より

概要

1917年 開業 - 1930年

別名

所在地

東京都台東区浅草 東京都台東区浅草2丁目11番1号

歴史

1917年(大正6年)、同年にオープンした東京・浅草公園六区の観音劇場の経営を曾我廼家五九郎[注 1]がまかされる。

1920年代?、浅草観音劇場曾我廼家五九郎が『人肉の市』を舞台化[1][2]

1927年(昭和2年)からは日活作品を上映し始める。

1930年(昭和5年)8月、榎本健一(エノケン)が二村定一、武智豊子とともに「第2次カジノ・フォーリー」を脱退、「新カジノ・フォーリー」を同劇場で旗揚げした[2]。同年10月の新カジノ解散とともに閉館した。

1947年(昭和22年)に始まるストリップ劇場開業ラッシュのころに、「百万弗劇場」となった。

エピソード

引用文献

  1. 伊藤晴雨非小説 性液(十)奇譚クラブ1954年(昭和29年)11月号, p68
  2. 伊藤晴雨非小説 性液(十一)奇譚クラブ1954年(昭和29年)12月号, p169

注釈

  1. 1876年(明治9年)生まれ。壮士芝居を経て1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名のる。独立して一座を構え、初期のサイレント映画に主演。

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