「美芸会」の版間の差分

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*20年弱で十万人以上の会員数。一時は全国で47支部<ref name="SMclubkitahara"></ref>。
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*入会規則が厳しく、[[団鬼六]]が『あの厳粛にして峻烈な入会規則書は読んだことがあります。』と述べている<ref>「花は紅 団鬼六の世界」([[幻冬社]], 1999)</ref>。
*2chに「鉄工所経営」をしていたという書き込みがある。
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*2chに「仲富士礼子」という女王様がいたとの書き込みがある。
*2chに「仲富士礼子」という女王様がいたとの書き込みがある。

2015年3月8日 (日) 21:57時点における版

概要

松田富治男が1966年(昭和41年)に大阪で発足させたSMクラブ。1971年(昭和46年)には静岡に移り、立花玲子を中核とした女王様サークルとなる。やがて東京に進出。ビデオの製作会社名でもある。SMクラブの歴史において重要な位置をしめる。

別名

美藝会

所在地

豊島区池袋2-1037(1984頃)

歴史

1966年(昭和41年)9月、松田富治男が大阪府寝屋川市で美芸会を発足[1]

1971年(昭和46年)、美芸会は静岡県清水市に移る。

1970年代後半、美芸会立花玲子を中核とした女王様サークルとして有名となる。

東京に進出して「松田企画」に。

ビデオ

エピソード

  • 最初は『嗜虐の会』という名で会員を集める[1]
  • 発足時は会員数約30人。
  • 20年弱で十万人以上の会員数。一時は全国で47支部[1]
  • 1977年(昭和52年)に村山浩介が会員。静岡に移る頃は約100名[1]
  • 入会規則が厳しく、団鬼六が『あの厳粛にして峻烈な入会規則書は読んだことがあります。』と述べている[3]
  • 2chに「鉄工所経営」をしていたという書き込みがある。
  • 2chに「仲富士礼子」という女王様がいたとの書き込みがある。
  • 他に、木村みどり、水野美栄子、松田麻美が在籍していた。
  • 1970年末に11PM(月曜日)で、カルーセル麻紀美芸会を取材する放送があった。
  • 館淳一「男性Sの会員も入れたんですが、たとえSであっても、Mの気持ちを分かるためと称して、入会審査時に女王さまによるMプレイを受けるのが義務でした。」[4]
  • 80年代初め、サオリ女王による調教の模様の音声を収録した30分か40分の収録時間のカセットテープを5千円で発売していた。[5]

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 北原童夢SMクラブの考現学S&Mスナイパー1989年(平成元年)3月号
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 videoプレス1982年(昭和57年)8月号の美芸会の記事に紹介されている。
  3. 「花は紅 団鬼六の世界」(幻冬社, 1999)
  4. FaceBookへの書き込み(2014.10.5)
  5. 人間椅子サロン「み」June 13, 2008

注釈

お役たちweb

つながり

立花玲子