伊藤晴雨

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伊藤晴雨 (1882-1961)

いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日

活動内容

画家。写真家。緊縛師。風俗考証家。舞台装置家。演劇評論家。

別名

Seiu Ito, 伊藤一(本名)

略歴

1882年(明治15年)、東京市浅草区に生まれる。

1890年(明治23年)頃(8歳)、琳派の絵師に弟子入り。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の臭いに執着する性癖が発現している。

父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。

25歳から新聞社に勤め挿絵や評論を書く。27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚をする。包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。

34歳でお葉をモデルに責め絵を描く。37歳で最初の妻と離婚、二人目の妻をめとる。この女性は晴雨の責め絵のモデルにもなっており、妊娠中に吊り責めを受けるなどしていた。だが、13歳若いこの女性は後に浮気をして晴雨のもとを去る。

1923年(大正12年)、関東大震災により財産を失う。『いろは引・江戸と東京風俗野史』を出版。

1928年(昭和3年)、『責の研究』は発行。発禁処分。

1931年(昭和6年)、三人目の妻が精神を病み闘病、借金に追われるようになる。

1945年(昭和20年)、東京大空襲で家財一切を焼失。

1953年(昭和28年)6月4日、市川市鈴木演芸場で「責めの劇団」の第1回公演[注 1]。7月11日文京区東片町中村座で第2回公演[注 2][注 3]

1960年(昭和35年)、挿絵画家としての功績に対し出版美術連盟賞を受賞。

1961年(昭和36年)1月27日、死去。

1966年(昭和41年)、団鬼六脚本の『猟奇の果て』[注 4]伊藤晴雨をモデルとしている[1]

1968年(昭和43年)、奇譚クラブ12月号、および翌1月号の2回に分けて団鬼六『私本 伊藤晴雨物語』。

1969年(昭和44年)、東映で団鬼六を中心として、伊藤晴雨の伝記映画の製作の話がかなり進んでいたようだが、最終的には実現しなかった。

1977年(昭和52年)、『発禁本「美人乱舞」より 責める!』(製作:日活、監督:田中登、出演:宮下順子)

1978年(昭和53年)、自由劇場にて、玉井敬友の『奇伝・伊藤晴雨』。

1996年(平成8年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』(朝日ソノラマ)。

2002年(平成14年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。

エピソード

  • 高橋鐵伊藤晴雨を「お江戸の熊楠」と呼んだ[2]
  • 『演芸画報』に舞台スケッチと共にエッセイ、レポートを掲載していた[3]
  • 喜多玲子こと須磨利之と3年にわたり書簡を交換していた[2]
  • 濡木痴夢男は『いろは引・江戸と東京風俗野史』を愛読し、ここから題材を得て、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』を書いた[3]
  • 上田青柿郎は伊藤の流れをくむ緊縛師。
  • 月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』を参考に妻を吊して写真にする。
  • 辻村隆奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。また、東映の団鬼六脚本による伊藤晴雨の映画化がどうも延期されそうだとも書いている。

代表作

晴雨を扱った雑誌・書籍

参考資料

注釈

  1. 濡木痴夢男はこの公演を観ている。演目は鈴木泉三郎脚本の「火あぶり」(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
  2. 江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。
  3. KK通信1953年(昭和28年)第13号
  4. (1996.2)(製作:ヤマベプロ。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
  5. 責め絵、責め写真に加え、伊藤晴雨 『責め絵の研究』『吊り責めさまざま』、野村佳秀『責め絵の道一すじに生きた鬼才』、古今亭今輔らの座談会を含む。

つながり

高橋鐵 須磨利之 川口博 上田青柿郎 濡木痴夢男 夜久勉

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