エロ法規制の歴史
主な事件
1946年(昭和21年), カストリ雑誌の1つ『猟奇』12月号が摘発。対象は北川千代三の「H大佐夫人」[注 1][1]。
1947年(昭和22年)1月1日、帝都座で秦豊吉がしかけた『額縁ショー』の頃の警視庁保安課取り締まり規則は次の通り。「ズローズは股下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずること。背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざる事。静物と称し全身に肉襦袢を着し、裸体の曲線美を表するものは、腰部をスカートその他これに類するものを以て覆わしむこと」[2]。
1950年代、ジプシー・ローズの「グラインド」が禁止。「二回以上の尻回しと三回以上の腰振りは猥雑にあたる」[1]。
1954年(昭和29年)、風俗草紙2月号が摘発。奇譚クラブ3月号が摘発[注 2]。風俗草紙4月号、奇譚クラブ4月号が摘発[3]。6月号〜9月号、12月号〜1955年3月号が休刊。
1955年(昭和30年)3月25日、奇譚クラブ4月号が押収。容疑箇所は伊藤晴雨の「指人形」、古川裕子の「孤独」、二俣志津子の「悪魔の遊戯」[4]。
1956年(昭和31年)、『売春防止法案」が成立・公布。
1958年(昭和33年)4月1日、『売春防止法案」が施行。
1962年(昭和37年)、裏窓8月号が摘発。
1968年(昭和43年)9月、奇譚クラブが扉頁に「本誌自粛の徹底」を掲載(これ以降の号、毎月)。当局の取り締まりを意識。
1972年(昭和47年)、日本ビデオ倫理協会設立。
1973年(昭和48年)、SMキングの8月号と9月号が発禁処分に[5]。
1980年(昭和55年)、ビニ本販売で芳賀書店専務の芳賀英明が指名手配、出頭。
1999年(平成11年)、風俗営業法
2008年(平成20年)、改正風営法
2008年(平成20年)3月1日、「日本ビデオ倫理協会」の審査部統括部長小野克巳らが逮捕。
2008年(平成20年)6月、日本ビデオ倫理協会が審査停止。「日本映像倫理審査機構」となる。