カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 〜その2〜

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カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 〜その2〜

概説

前回の「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 〜その1〜」に続いて、1947年(昭和22年)10月25日から1952年(昭和27年)4月号までの奇譚クラブ初期5年間のB5版時代の動きを整理していみよう。なお、1949年(昭和24年)以降に発行された号を「カストリ雑誌」として取り扱うのは、本来は正しくないが、便宜上このB5版時代の5年間の『奇譚クラブ』をカストリ雑誌時代の奇譚クラブと呼んでおく。

1949年(昭和24年)前後の奇譚クラブ

カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 〜その1〜」で紹介したように、創刊当時の奇譚クラブは須磨利之の痕跡は見いだせない。これは須磨利之が奇譚クラブの編集に途中から参加したといういろいろな証言に一致している。須磨利之の名前が登場するのは1948年(昭和23年)10月15日発行の通巻9号である(8号が未見なので8号かもしれない)。この9号には辻村隆の変名である「信土寒郎」も登場する。したがって、須磨利之辻村隆もほぼ同時に奇譚クラブに関わり出したことが分かる。翌1949年(昭和24年)9月15日発行の第3巻第8号では、須磨利之の代表的な変名である「喜多玲子」が登場し、その他の変名も駆使しながら須磨利之奇譚クラブの製作に深く関わっていたことが分かる。ただ少なくとも挿絵に関しては、この頃までは柴谷宰二郎(=瀧麗子、三条春彦、栗原伸他)と手分けして担当していたようだ。

1949年(昭和24年)11月から1950年(昭和25年)8月の10ヶ月間に発行された奇譚クラブは未見である。いつ、何号が発行されたのか定かでは無い。ただ、1950年(昭和25年)9月号が「通巻23号」と書かれているので、この間に7冊ぐらいは間違いなく発行されていたはずだ。この期間に同じように柴谷宰二郎が関わっていたのかは不明である。1949年は(昭和24年)はカストリ雑誌時代の終焉を迎えた年ともいわれている。激しいインフレで、雑誌の発行が非常に難しい時期だったようだ。名の通った文筆家も、次第にカストリ雑誌に寄稿しなくなったと言われている。特に大阪に拠点を置いていた曙書房には厳しい状況だったと思われる(同時期に大阪から発行されていたカストリ雑誌「千一夜」も、やがて東京に拠点を移している)。ちなみに、1949年(昭和24年)6月には、鱒書房から『夫婦生活』が創刊され、夫婦雑誌の大ブームが到来する(ちなみに、高倉一はこの『夫婦生活』の第3号から編集に参加している)。カストリ雑誌時代と比べると、より「軟らかく」て「エロ」い雑誌が注目されるようになる。

須磨利之の本格参加

1949年(昭和24年)10月15日発行の次に資料があるのが1950年(昭和25年)9月号(通巻23号)の奇譚クラブだ。時代の流れを反映してか、1年前のそれに比べると「軟らかくてエロい」雑誌に変身している。最初のグラビアは『玲子さん海へゆく』というタイトルで、須磨利之の絵と写真とのコラージュが読者の目を楽しませてくれる。写真には何点かのヌードが使われているのが目を引く。これまでにも表紙裏などにさりげなく海外ヌード写真などが掲載されていたこともあったが、この1950年(昭和25年)9月号のヌードは、それに比べるかなり大胆な使い方だ。多色刷りの口絵も既に登場しており、山東京傳『江戸生艶気椛焼』では、4ページにわたる須磨利之の繪物語が展開されている。須磨利之パワー全開といったところだ。

この1950年(昭和25年)9月号では、須磨利之に合わせるように辻村隆も大活躍である。緑猛比古『将軍暁に死す』、緑猛比古『娘御開帳』、信土寒郎『都会の溜息』などの作品を寄稿しており、いずれも挿絵は須磨利之だ。印象としては、ほとんど須磨利之と辻村隆で作られた号のようである。

1950年(昭和25年)の須磨利之

1950年(昭和25年)といえばいわゆる朝鮮戦争が勃発した年である。須磨利之の伝記には創作部分が多く、明らかに時代が前後している記憶も少なくないので、なかなかそのまま資料に使うことはできないのだが、須磨の伝記を信じるなら、この朝鮮戦争の勃発年の春に須磨利之は玲子夫人と結婚している。同年の11月頃には京都から堺市に引っ越ししたことになる。それまでは、京都から必要に応じて堺の曙書房に通い、忙しい時などは泊まり込みで編集を手伝っていたのだが、結婚を機に、また、吉田稔編集長から強く乞われて、堺市に引っ越しをし、奇譚クラブの編集に専念することにした、ということになる。

確かに上述の1950年(昭和25年)9月号を眺めると、挿絵も須磨利之一人で描いているようで(柴谷宰二郎の痕跡は見いだせない)、全体的に須磨利之が深く関わっているのを感じ取れる雑誌となっている。かなり奇譚クラブの編集に集中していたことが分かる。1950年(昭和25年)といえば、須磨利之30才の年である。結婚を機会に曙書房のフルスタッフとなり、奇譚クラブの編集に集中しはじめたと考えてよいであろう。ただし、夫人の旧姓を用いたとされる「喜多玲子」の登場が1949年(昭和24年)9月号なのが気になる。玲子夫人と結婚したのが実は1949年(昭和24年)で、49年の暮れには大阪に移っていたのか、あるいは結婚の前年から既に知り合っており、喜多玲子の変名を使い出したのか、はたまた「喜多玲子は夫人の旧姓」というのが創作なのか、のいいずれかであろう。

美濃村晃と箕田京二の登場

SMファンとしては、奇譚クラブにいつ頃最初に緊縛関係の絵や写真が現れたのかは興味のある点である。未見の号がいくつかあるものの、調べた限りで、最初に縛りの絵が出てくるのが、1950年(昭和25年)12月号の岡村俊二『裸の踊り子』の挿絵である。須磨利之の作品であろう。ただ、この程度の縛り挿絵なら、同時期の他の雑誌に出ていたかもしれない。

須磨利之らしい緊縛の絵が(調べた限り)最初に登場するが、1951年(昭和26年)3月号『軟派小説決定版』である。この号は、その名前が示すとおり、それまでに比べてもさらに増して「軟派エロ路線」に突っ走っている。

3月号の紹介に入る前に、1950年(昭和25年)9月号以降の奇譚クラブを簡単に整理しておこう。上述のように1950年(昭和25年)12月号には軽い縛りの挿絵が登場している。翌1951年(昭和26年)1月号(通巻26号)で特筆すべきは、「辻村隆」の名前が初めて登場している。それまでは、緑猛比古、信土寒郎の変名で精力的に執筆を続けていた辻村隆だが、この号で(調べた限り)初めて、辻村隆『産婦人科医 重利先生行状記』で登場している。挿絵はもちろん須磨利之(変名:沖研二)である。

辻村隆と並んで、もう一人の重要な名前がこの号に現れている。「松井籟子」である。A5版に入ってから『淫火』の連載で注目を集めた女流作家だが、B5版のこの頃から既に、常連作家として寄稿を始めている。また、須磨利之が「箕田京」という変名を使い始めている。これについては後で詳述する。この1月号には、須磨利之が、初期に好んで使った変名、「明石三平」の名で『内股彫謎刺青』と題する長編漫画を描いているのも面白い。

さて、1951年(昭和26年)3月号に戻ろう(2月号は発行されたのかどうか不明である)。1月号ですでにかなり大きな動きがあった奇譚クラブだが、この3月号では、まず、巻頭の多色刷りグラビアで片山薫『責めの狂艶絵巻 遊女葦水の最後』で須磨利之の見事な縛り絵が披露されている。変名は「としゆき」である。グラビアでもう1つ注目すべきが、須磨利之構成によるヌード写真の登場である。「春へのあこがれ」がそれで、「構成:美濃村晃、撮影:二宮哲夫」となっている。続いて、同じく須磨利之の変名である沖研二構成のヌード写真「扉のかなた」も掲載されている。少なくとも1951年(昭和26年)の始めから、須磨利之がモデルを使ったヌード写真の撮影を本格的に始めていたのが分かる。

「美濃村晃」は須磨利之が喜多玲子と並んで好んで用いた変名であるが、手に入る資料の範囲内では、「美濃村晃」の変名が最初に登場するのがこの1951年(昭和26年)3月号である。ヌード写真の構成に加えて、直木竜史『哀艶情歌』の挿絵も美濃村晃の名前で描いている。

もう1つ注目すべき変名の登場が「箕田京二」である。同年の1月号では「箕田京」という名で、早乙女晃『呪われた紅人魚』の挿絵を描いているが(ちなみに早乙女晃も須磨利之の変名)、この号では「箕田京二」の名で笠置良夫『泥沼に喘ぐ女』の挿絵を描いている。1949年(昭和24年)4月に発行された別冊『第七天國探訪記』では「魁京二」という変名が使われているので、「みの」「きょう」などは須磨利之が変名を作る時のキーワードだったのかもしれない。

この「箕田京二」の変名は、3月号以降も頻繁に使われているので、須磨利之のお気に入りの変名だったのだろう。「奇譚クラブ」に編集人は、この年11月号まで一貫して「吉田稔」だったのだが、1951年(昭和26年)12月号から「編集人:箕田京二」と変わっている。おそらく、この12月号から須磨利之が奇譚クラブの編集長に就任したと考えて間違いないであろう。須磨利之は1953年(昭和28年)の中頃に奇譚クラブを離れるのだが、その後も編集人の名は、1968年(昭和43年)の中頃に杉原虹児に代わるまで箕田京二のままである。このことから一般的に、「箕田京二は吉田稔の変名」と考えられているが、おそらくは「箕田京二は須磨利之の変名であったが、1953年(昭和28年)の中頃に須磨利之が奇譚クラブを離脱してからは、吉田稔がそのまま箕田京二の名を受け継いだ」と考える方が正しいものと思われる。

奇譚クラブのモデル達

1951年(昭和26年)の始めから奇譚クラブのグラビアには堂々とヌード写真が使われるようになった。何かの雑誌の転載ではなく、ヌードモデルとカメラマンを使って撮り下ろしした作品である。3月号の構成:美濃村晃による「春へのあこがれ」に続き、4月号では同じく構成:美濃村晃による「お尻 おしり オシリ」という楽しい作品が掲載されている。5月号の「構成・美濃村晃、詩・サトウロクロー」による『ヌードは踊る』ではストリップのダンサーが撮影されている。上述の1951年(昭和26年)3月号の裏表紙にはストリップ劇場の「道劇」の広告が全面に出ている。『ヌードは踊る』で出演している踊り子は、あるいは「道劇」のダンサーだったのかもしれない。A5版時代に、まずカメラマンとして登場する塚本鉄三が、「大阪南のDストリップ劇場でストリッパーたちの宣伝スチール写真を撮っていた」と紹介されているので、塚本鉄三がグラビア撮影を通じて、奇譚クラブへの関わり合いを深めたのではないかと、思わず想像をたくましくしてしまう。

 3月、4月、5月号と「構成・美濃村晃」でヌード写真が掲載されているが、6月号になると美濃村晃ではなく「本社写真部特写」の作品としてヌードグラビアが掲載される。後に、辻村隆が1951年(昭和26年)7月に3人のモデルを使った野外撮影や入浴ポーズの撮影をおこなったことを回想しているので、「本社写真部特写」には辻村隆が入っていたと考えて間違いないであろう。

1951年(昭和26年)11月号になると写真グラビアページは16ページに増え、この号では「モデル嬢年齢当て捨万円大懸賞」として当時のモデルの12人が紹介されている。紹介されているモデルの名は、雲井久子、津森志奈子、吉田百合、赤坂和枝、黒川タミ、濱名藤子、中林カオル、綠川瀧江、藤原ユキ、渡邊満佐子、牧野マリ子、土井昭子である。この中で、雲井久子、中林カオルの2人はA5版時代に入ってからも引き続きモデルとして登場し、緊縛モデルへと変身する。また、初期緊縛モデルとして極めて重要な存在である川端多奈子が、別の名前でこの12人の中に交じっているはずなのだが、いまのところそれが誰なのか特定できていない。

1951年(昭和26年)時点で緊縛写真の撮影がおこなわれていたのかどうか、もしそうならば、誰が中心となって緊縛写真を撮影していたのかは、非常に興味のある点である。手に入る情報の範囲では、1951年(昭和26年)12月号『男色天国繁昌記』のグラビア「縛られた娘たち」に軽い縛りの写真を見ることができるが、まだまだ本格的な縛りではない。もっとも、奇譚クラブがA5版のSM路線に入ってからも、すぐに本格的な縛り写真が登場したわけではなく、1952年(昭和27年)5・6月号に登場する緊縛写真も、この1951年(昭和26年)12月号の写真と同程度のイメージ的な縛りにしか過ぎない。後に、この1952年(昭和27年)5・6月号の縛りは、モデルが背中で紐を握って縛られているように見せたものであることが明かされている。

一般的に、奇譚クラブにおける緊縛写真は、誌面にグラビアとして掲載される作品よりも、「分譲写真」として頒布されていた作品の方が、内容的にも強烈で、時期的にも雑誌掲載よりも少し早めに頒布されていたようである。この「写真分譲」であるが、実に1948年(昭和23年)通巻5号の時点でその案内を見ることができる。この頃はおそらく縛りの写真などは含まれていなかっただろうが、1951年(昭和26年)頃に分譲されていた「裸体美人写真」に縛り的な作品が含まれていたのかどうか、非常に興味のあるところだ。1952年(昭和27年)5・6月号以降のA5版に入ってからの分譲写真「責め女の写真」については、Mr.分譲写真氏運営の「昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真」で詳細な分析が進行中であるが、それとて1952年(昭和27年)10月号以前の分譲写真に突いての整理は、なかなか容易な作業ではないようだ。B5版時代にどのような写真が分譲されていたのか、新しい情報が発見されるのを楽しみだ。

『讀切ロマンス』の存在

この時期の奇譚クラブの動きを見る上で、無視できないのが『讀切ロマンス』の存在である。『讀切ロマンス』は1949年(昭和24年)12月に人情講談の別冊として創刊されている。時期的にはカストリ雑誌ではなく、むしろ実話雑誌・夫婦雑誌の仲間であろう。奇譚クラブのように大阪発の雑誌ではなく東京の雑誌である。

『讀切ロマンス』で注目すべきは1951年(昭和26年)7月号で既に緊縛写真が掲載されていることだ。これは、ストリップ劇場での出し物のワンシーンとしての紹介なので、緊縛写真とは少し違うかもしれない。ただし、『讀切ロマンス』は、1952年(昭和27年)2月号あたりから編集人が上田青柿郎に代わり、かなり本格的な緊縛写真をしばらく掲載し続ける。まだまだこの時期には、奇譚クラブには本格的な緊縛写真は登場していないわけなので、『讀切ロマンス』の先駆性はたいしたものである。

上田青柿郎は編集人として『讀切ロマンス』の他にも『SMプレイ』の創刊にも関わっている。賀山茂氏が1954年(昭和29年)頃に上田青柿郎主催の「縛りの撮影会」に参加しているので、かなり早い時期から緊縛文化の発展に貢献していた重要な人物である。須磨利之や辻村隆が1952年(昭和27年)前半の『讀切ロマンス』の緊縛写真に大きく刺激を受けながら、本格的な緊縛写真の撮影に挑戦していったのは想像に難くない。

==まとめ== いささか散漫になった「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 〜その2〜」だが、要約すると、1951年(昭和26年)に入ると、奇譚クラブは須磨利之カラーが強く全面に出され、本格的な緊縛挿絵も堂々と掲載されるようになった。「美濃村晃」「箕田京二」という鍵となる変名が登場したのもの時期に一致する。同時に、須磨利之や辻村隆らによる写真撮影もこの時期から活発化するが、まだまだ雑誌そのものには本格的な緊縛写真が登場するまでには至っていない。奇譚クラブに本格的な緊縛写真が登場するのは、1952年(昭和27年)の後半に入ってからである。モデルを使った初期緊縛写真の歴史については、項を改めて整理したい。

つながり

カストリ雑誌時代の奇譚クラブ

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