椋陽児
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むく ようじ、1928年(昭和3年)11月18日 - 2001年(平成13年)7月30日。1960年代初めから「裏窓」の編集室に。椋(むく)陽児、落合竜二等の名で絵と文を発表。少女の緊縛絵でマニアが注目。緊縛写真を基にした鉛筆画が多い。
概要
画家。文筆家。編集人。裏窓、SM秘小説などに作品発表。30代の頃に裏窓に投稿した小説がきっかけで裏窓に編集員として参加。須磨利之や濡木痴夢男などのと親交を深める。後年、少女の緊縛鉛筆画でマニアの心を掴む。濡木痴夢男の緊縛の写真を基に、夫人のイメージを重ねながら描いた作品が多いとされている。
別名
Yoji Muku、落合竜二、椋陽舁、落合龍二、落合龍三?(イラスト)、加藤弘(イラスト)、佐伯双龍(コミック)、祖父江新(小説)、豊中夢夫(小説)、御匠ちせ子(小説)
略歴
1928年(昭和3年)11月18日、大阪の堺市の貧しい家庭に生まれる[1]。。
1940年代、小学校を卒要するとすぐに就職。20年間サラリーマンをつとめる[1]。
1963年(昭和38年)、裏窓編集部に入る。当時の編集長は濡木痴夢男。
1986年(昭和61年)、S&Mスナイパー10月号に木方雅人によるインタビュー[1]。場所は恵比寿の高層マンションにあった椋陽児のアトリエ。
2001年(平成13年)7月30日、没。
2002年(平成14年)、S&Mスナイパー9月号、10月号に濡木痴夢男の『幻の緊縛画家・椋陽児の潜む地下迷宮』特集[2][3]
エピソード
- 「実話雑誌」に挿絵や漫画を書いており、その縁でSMセレクトに小説を書き始める。
- 落合竜二写真集I,IIの合本が「緊縛の肌」として譚奇会というところから発行。
- 「椋陽児の緊縛画の九十パーセントは、私が縛った写真を見て、それをそっくり描いたものである。」「彼は私の縄しか認めていなかったと」と濡木痴夢男[4]。
- 「本当ゆうと、時代もんなんか描きたいんやけどね。その方がリアリティがあるから。でも時代モンは編集者にウケへんから」[1]。
- 「絵で一番大切なのは情況のリアリティ。なるべく無理のない、自然な情況の方が、すんなりとその世界へ入っていけるんや」[1]。
- 「『裏窓』にね。小説と絵を投稿したのが最初。そしたら、編集長に呼ばれた。「小説おもしろい」ってね。絵じゃなくて小説だった」[1]。
- 「絵描いてくらすようになったんは本当に17、8 年ぐらいのもんやで。せやし、年齢の割にはキャリアが短いんですよ」[1]。
- 「別に鉛筆にとだわっているわけゃないけど鉛筆が一番描きやすいね」[1]。
- 「僕は基本的に写真を見ながら絵描くからね。昔はずいぶんと撮ったものですよ。写真集なんかも出したからね」[1]。
- 「椋陽児の作品のモデルは、始めから終わりまで、一貫して愛妻夢子であった。夢子がいたから、椋陽児は責め絵を描くことができたのである」[3]。
作品
- 八巻令『鏡の中の薔薇』(耽美館, 1969)(挿絵:落合龍二)(SM耽美文学シリーズ No.3)
- 光谷東穂『被虐の系図』(耽美館, 1969)(挿絵:落合龍三)(SM耽美文学シリーズ No.19)
- 画集『縄と女』編集・譚奇会 1970年12月10日発行 三崎書房
- 椋陽児『制服ポルノ』(絵と文) パンチSM1971年(昭和46年)10月号
- 椋陽舁『金髪マゾの喜悦』SMファン1972年(昭和47年)1月号
- 椋陽児『秘蔵画集 処女狩り』SMコレクター1981年(昭和56年)4月号増刊
- 『秘禁縄淫画廊』(マイウェイ出版, 2008)
- 椋陽児「縄 Jyo」(まんだらけ, 2000)(限定1500部)
- 『愛艶三千世界―好淫の媚を競う』(マイウェイ出版, 2009)』、(椋陽児、笠間しろう、沖渉二のイラスト集)
- 小妻容子・前田寿安・椋陽児『悦虐肌秘画三人集 艶女 惑溺の被戯宴』(ヤック翔竜社, 不明)(企画・編集:魁歓社)