テンプレート:駿河問い

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するがどい

概要

江戸時代に行われていたとされる幕府公認ではない拷問の一種。および、それに由来する現代の緊縛法。手足を背中でひとつに結び吊り下げ、背中に重石を乗せ廻転させる。

別名

駿河問い 駿河問 駿河責 駿河問い縛り

英語表記

Surugadoi

解説

三浦浄心『慶長見聞集』

寛永後期(1640年頃)の作ではないかと考えられている仮名草紙『慶長見聞集』の六之巻に駿河問いの記述がある。『慶長見聞集』には伝写による各種の版があるが、『雑史集』(国民文庫刊行会, 1912)に収載されている版の「罪人共籠中法度定むる事」の章では「見しは今、大鳥一兵衞と云者、江戶町に有て世にまれなる徒者、是によつてきんごくす。仔細は前にせいぜんふ委記せり。然に一兵衞能中東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前の由來を人々に語て聞せこのじふわうん。武州大鳥と云在所に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲み此十王たっあかつきれいむ堂に一七日籠り、まんずる曉靈夢のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしあゆに、こつがらたくましく


「爰に彥坂九兵衞と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つの手足をうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を重荷におき、天井より繩をさげ中へよりあげ一ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、惣身のあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすが如し。一兵衞今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこし息をさすべしと繩をおろし、とひへ水をそゝぎ、口へ氣藥を入れ、扨もかひなし一兵衞同類をはやく申せいはずんば又あぐべし。なんぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衞いきのしたよりあらくるしやかなしや候いかなるせめにあふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいは此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人桐の木の杖をつき、母にはしさいの色を著て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云

『皇典講究所講演』

駿河町奉行彦坂九兵衛が慶長年間に発明したとされる拷問法の1つ。いろいろな文献に引用される中で、明治時代に神道や古典文学の研究・普及を目的として設立されたと思われる皇典講究所が1895年(明治28年)5月に発行した『皇典講究所講演 16』での記述は比較的古いものである。ここには「駿河問といふ拷法あり、駿河の町奉行彦坂九兵衛の創めしものにて、其法極めて残虐なりしと聞く、慶長見聞集、大島一兵衛組の條に、○に彦坂九兵衛と云人、たくみ出せる駿河問とて、四ツの手足をうしろにまいし、一ツにくくり、背に石を重荷におき、天井より繩を下げ、中へよりあげ、一ふりふれい、只車を廻すに似て、惣身の油、かうべへ下り、油のたると、水を流すが如しと見ゆ」とある。ここにある「慶長見聞集」が、三浦浄心による書籍ならば、三浦が生きていた江戸初期に出典が大元の記述なのかもしれない。

イギリス国王使節ジョン・セーリスが慶長18年(1613)頃に駿府郊外でキリシタン迫害を目撃し、報告している模様。これには「駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。」とかいてあるらしい[1]。この記述のもととなった文献は調査中。

「侠客大島逸兵衛が、この拷問にあったり、屎水を喰わされたりした。寛永年間にも、曾根甚六という者の妻が、この拷問をおこなわれたという。」[2]

参考となる文献教材

駿河責=「駿河の代官彦坂九郎兵衛の発明にかかるといふ。女の四肢を縛り土石を乗せて廻転せしむるもの。」とある。

参考となる緊縛教材

ギャラリー

引用文献

  1. 駿府キリシタンの光と影
  2. 森川哲郎日本拷問残酷史SMマガジン 1970年(昭和45年)9月号

注釈

  1. 「刑事博物図鑑より」とある。ただしこの絵はけもの縛りに吊す前の状態と見える。説明にも「(江戸時代に地方では)吊して廻転せしめる一種の駿河問がおこなわれていた」とある。おそらく当時の絵師が作図したものと思われる

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