上田青柿郎
うえだ せいしろう (生年不明)。戦後まもなく活動した緊縛師、編集人。1950年代初めには「讀切ロマンス」の編集人となり、同誌に緊縛写真を掲載。奇譚クラブより早い時期に本格的な緊縛写真を一般雑誌に掲載したことになる。
概要
緊縛師。写真家。編集者。奇譚クラブ以前に緊縛写真を掲載していた讀切ロマンスの編集人として1951年(昭和26年)に名前が現れる。讀切ロマンスの緊縛写真は上田青柿郎の手によるものと考えてよく、賀山茂が上田青柿郎の「縛りの撮影会」に1954年(昭和29年)頃参加したとの記録があるので、1950年代から活発に緊縛をしていた模様である。風俗草紙や風俗科斈への執筆作品もあり、1971年には辰巳出版から創刊されたSMプレイの編集人もつとめている。1952年(昭和27年)8月と1953年(昭和28年)1月に編集人として出版した讀切ロマンス別冊の緊縛写真集はSM初期の写真集として貴重な存在である。また西原儀一監督のピンク映画で緊縛指導をしていた模様である。
別名
Seishiro Ueda、上田嘉信[1]
略歴
1949年(昭和24年)讀切ロマンスが創刊。人情講談別冊として合資会社サンライズ書房から。初期の編集人は小堀神風となっているが、1952年3月号は第4巻、5号として編集人が上田青柿郎に。発行も睦書房。
1952年(昭和27年)讀切ロマンス八月号(第4巻11号)臨時増刊号「ヌード風俗アルバム」。編集人:上田青柿郎、発行人:小林光雄、印刷人:加藤木豊三。発行は睦書房。編集後記に「『縛り絵』一年生」として上田の手記。「「女の責め場」をヌード写真に採上げてじゃらちょうど一年になる。・・・「
1953年(昭和28年)讀切ロマンス一月号臨時増刊号「伊藤晴雨監修:悦虐恍惚図」八〇円。編集人:上田青柿郎、発行人:小林光雄、印刷人:久野木貞治。写真内容はぐっと伊藤晴雨風になっている。
1953年(昭和28年)頃、風俗草紙に執筆。七月号「新しい責め古い責め」、八月号「木馬責め滑車責め」。
1954年(昭和29年)、風俗科斈に口絵。2月号、3月号などには分譲写真の案内「耽美派通信」が掲載。申込先が第三文庫となっている。
1954年(昭和29年)、賀山茂が上田の「縛りの撮影会」に参加したとの記録を自伝に書いている[2]。会場は新宿の元遊郭。会費2000円。数名の会員が土蔵の中でSMショーを観る。当時、上田は辰巳出版にいたようだ、とある[3]。
1961年(昭和36年)、伊藤晴雨の葬儀に参列。この時、全日本社にいる[4]。
1962年(昭和37年)、この頃、広晴社の『実話と秘録』の編集人をやっている。
1970年(昭和45年)、綜合図書から「緊縛フォト選集 禁じられた恍惚」。カバー絵は秋吉巒。
1971年(昭和46年)、に綜合図書から「緊縛フォト選集 恍惚の美学」「同 薔薇聖女」カバー絵は秋吉巒。
1971年(昭和46年)、辰巳出版からSMプレイを創刊。1972年(昭和47年)12月号まで続く。
年代不詳で団鬼六と現代ジュゲム・プロダクションから「アブノーマルセックス」
エピソード
- 伊藤晴雨の流れをくむ緊縛師。
代表作
編集雑誌
写真集
- 『緊縛フォト全集 禁じられた恍惚』(綜合図書, 1970)(カバー絵は秋吉巒)
- 『緊縛フォト選集 恍惚の美学』(綜合図書, 1971)(カバー絵は秋吉巒)
- 『緊縛フォト選集 薔薇聖女』(綜合図書, 1971.4.16)(企画・編集:上田青柿郎、カバー絵は秋吉巒)