「アルス・ノーヴァ」の版間の差分

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*1958年から[[アルス・ノーヴァ]](当時は現代舞台芸術協会のスタジオと読んでいたようである)の2階に[[土方巽]]が住んでいた<ref name="lasens2">[http://www.art-c.keio.ac.jp/archive/hijikata/about/chronology.html 慶應義塾大学 土方巽年譜]</ref>。今井の紹介で土方は黛敏郎を知る。
*1958年から[[アルス・ノーヴァ]](当時は現代舞台芸術協会のスタジオと読んでいたようである)の2階に[[土方巽]]が住んでいた<ref name="lasens2">[http://www.art-c.keio.ac.jp/archive/hijikata/about/chronology.html 慶應義塾大学 土方巽年譜]</ref>。今井の紹介で土方は黛敏郎を知る。
*「パントマイムの(ヨネヤマ・ママコ)、前衛舞踏の(土方巽)、モダンダンスの(三条万里子)、スペイン舞踊の(小松原庸子)、フラメンコの(小島章司)、バレエの(井上博文バレエ団)、演劇の(野沢那智)(有本欽隆)(劇団アルス・ノーヴァ)の他、若い多くの舞踏家たちが巣立つ。」<ref name="bungaku"></ref>。
*「パントマイムの(ヨネヤマ・ママコ)、前衛舞踏の(土方巽)、モダンダンスの(三条万里子)、スペイン舞踊の(小松原庸子)、フラメンコの(小島章司)、バレエの(井上博文バレエ団)、演劇の(野沢那智)(有本欽隆)(劇団アルス・ノーヴァ)の他、若い多くの舞踏家たちが巣立つ。」<ref name="bungaku"></ref>。
==ギャラリー==
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画像:HotLady1980c.png|[[劇画スペシャル]]増刊[[ホット・レディ]]1980年(昭和55年)5月20日号の『'''SM講座'''』で紹介される『'''[[オサダゼミナール]]'''』。[[アルス・ノーヴァ]]での公演のレポート。
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== 引用文献==
== 引用文献==

2024年9月10日 (火) 08:10時点における最新版

アルス・ノーヴァ
別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)8月号掲載のアルス・ノーヴァでの桜田伝次郎SM水族館」の公演案内。

あるすのーば。阿佐ヶ谷にあった小劇場。1955年(昭和30年)オープン、2007年(平成19年)閉場。向井一也長田英吉桜田伝次郎などが利用。

概要

1955年(昭和30年)[1]から2007年(平成19年)まで杉並区阿佐ヶ谷南 3-37-9にあった都内最古の小劇場の一つ。長田英吉オサダ・ゼミナールの第一回とその後の例会会場として使った。収容人数60名。

別名

阿佐谷アルスノーバ

歴史

1981年(昭和56年)9月25日、アルス・ノーヴァにて向井一也オリジナルの会主催『Sadism・Masochism原理第1章 謎の力』。当日2,000円[2]

1982年(昭和57年)6月12日、アルス・ノーヴァにてSM水族館による『SMスワッピングー調教交換IIIー』出演:黒川真由美。劇終了後に撮影会「繩縛少女〜猿轡篇〜」出演:石川秋子、繩縛師:明智伝鬼

トピックス

  • オーナーの「今井重幸」は別名を「まんじ敏幸」といい、1933年(昭和8年生まれ。)伊福部昭の弟子にあたる作曲家。土方巽のパフォーマンスに「舞踏」という言葉を当てた人としても有名で、舞踏、ダンス、演劇にも関与が深い。
  • 今井重幸の前妻が伊藤ミカ[1]
  • 劇団アルスノーヴァの稽古場兼持ち小屋としてスタートしたが、劇団アルスノーヴァ解散後も、小劇場として広く使われる。
  • 寺山修司が劇団アルスノーヴァに「俺に本を書かせろ」と言って来たので頼んだものの結局書かずじまいで、公演中止になり、その借金で劇団アルスノーヴァは解散。その後寺山は自分で天井桟敷を旗揚げ[3]
  • 1958年からアルス・ノーヴァ(当時は現代舞台芸術協会のスタジオと読んでいたようである)の2階に土方巽が住んでいた[4]。今井の紹介で土方は黛敏郎を知る。
  • 「パントマイムの(ヨネヤマ・ママコ)、前衛舞踏の(土方巽)、モダンダンスの(三条万里子)、スペイン舞踊の(小松原庸子)、フラメンコの(小島章司)、バレエの(井上博文バレエ団)、演劇の(野沢那智)(有本欽隆)(劇団アルス・ノーヴァ)の他、若い多くの舞踏家たちが巣立つ。」[1]

ギャラリー

引用文献

注釈

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つながり

長田英吉 オサダ・ゼミナール