「歌川大雅」の版間の差分

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画像:utagawa03.png|250px|[[歌川大雅]]『'''穴、その悲喜劇性について'''』[[SMトップ]] 1972年(昭和47年)8月号。
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画像:utagawa02.png|『'''夕暮れの山寺'''』[[別冊SMファン]] 1974年(昭和49年)7月号より。
画像:utagawa02.png|『'''夕暮れの山寺'''』[[別冊SMファン]] 1974年(昭和49年)7月号より。
画像:utagawa04.png|[[歌川大雅]]『'''拷問人形'''』[[SMファン]]1982年(昭和57年)4月号
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歌川大雅お枕若衆 蛸壺屋敷画報奇譚草紙 1960年(昭和35年)10月号より

うたがわ たいが、1917年(大正6年) - 1990年(平成2年)。戦前戦後の絵師。岡友彦の変名で児童雑誌の絵師として名を成す。1956年から歌川大雅の変名で成人向けの挿絵。70年代からは密教・立川流の研究者としても活動。弟子に前田寿安など。

概要

絵師。岡友彦の名でカストリ雑誌に多くの漫画を発表した後、100万人のよるなどの実話誌に歌川大雅の名でエロ劇画を発表。漫画の源流とも位置づけられている。裏窓画報奇譚草紙などにも作品を残している。密教である真言立川流に関する書物も数多い。

別名

岡友彦、石田隆次郎(本名)、丸高史郎、小倉放馬、花門長次

略歴

1917年(大正6年)、東京下谷区二長町に生まれる[1]

郁文館中学卒[1]

1934年(昭和9年)、『少年倶楽部』の募集漫画に応募した作品が次々と入選。翌年には投稿者から漫画家扱いで『少年倶楽部』の漫画頁に作品が掲載[1]

1939年(昭和14年)、玉井徳太郎の弟子となる。

1940年(昭和15年)、『少女倶楽部』へ挿絵を発表。歴史読物で太田黒勝彦とのコンビ。この時、初めて岡友彦の筆名を使用[1]

1947年(昭和22年)、『毒婦画貼 完』(開扇亭)を刊行[注 1]

1950年(昭和25年)、「おもしろブック」に連載開始された絵物語「天馬大流星」の作者。絵は玉井徳太郎が付けている。この頃、浅草象潟に転居[1]

1951年(昭和26年)、『少年少女譚海』(文京出版)はじめ、次々と絵物語作品を発表。大長篇作品「白虎仮面」(51~55・『少年少女冒険王』)の連載開始[1]

1956年(昭和31年)、この年創刊された『週刊漫画TIMES』に連載した『小町秘帖』で初めて歌川大雅の名前を用いる。

1958年(昭和33年)、裏窓に怪異絵物語『鬼火海岸』。

1960年(昭和35年)、『少年ブック』(集英社)掲載の「鞍馬天狗」を最後に岡友彦の名を捨て、児童雑誌から退く。

1967年(昭和42年)、「実話情報」に『悪女の仮面』。

1970年(昭和45年)、宗谷真爾の著書『陰陽師』(真珠社)の挿絵。この頃から真言密教の立川流・タントラに傾倒。


1972年(昭和47年)6月、清風書房から創刊された『SMセカイ』に「ラマ教密画展より」や小説「赤き夜・巨根」を発表。

1972年(昭和47年)9月、清風書房から創刊された『秘録SM21』の表紙。

1973年(昭和48年)、『密教秘法――タントラ入門』(桃源社)を出版し密教の研究に没頭。

エピソード

  • 山川惣治、小松崎茂、福島鉄次、永松健夫とともに絵物語作家の大家。
  • 前田寿安、桑田次郎、一峰大二、森田拳次等が弟子。
  • 「生まれ育った二長町には市村座、浅草象潟には、やはり芝居小屋の宮戸座が在り、岡は終生、芝居町の風情を愛した。」[1]

作品

ギャラリー

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 『日本幻想作家事典』(国書刊行会、2009/10/26)の巻末・怪奇幻想漫画家事典(P818~819)(岡友彦=歌川大雅とは?からの孫引用)

注釈

  1. 。江戸両国・軽業小屋の綱渡り芸人おりんの物語。副題に<大人の見る絵本>。開扇亭は下谷二長町の岡の実家。

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