「SM8mm映画の歴史」の版間の差分
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[[画像:KazuyaMukai3.jpg|150px|thumbnail|[[問題SM小説]]1974年(昭和49年)7月号の『'''足の下の心情'''』の8mm映画の広告。]] | |||
[[画像:SM8mm1.jpg|250px|thumbnail|[[SMスパイダー]]1982年(昭和57年)10月創刊号に掲載の[[オサダ・ゼミナール]]製作、長田英吉作・演出の[[SM8mm映画の歴史|8mm作品]]]] | [[画像:SM8mm1.jpg|250px|thumbnail|[[SMスパイダー]]1982年(昭和57年)10月創刊号に掲載の[[オサダ・ゼミナール]]製作、長田英吉作・演出の[[SM8mm映画の歴史|8mm作品]]]] | ||
2023年11月24日 (金) 12:41時点における最新版
すえむはちみりえいがのれきし。1930年代に8mmフィルムが開発。1952年(昭和27年)には伊藤晴雨が責めの8mm映画。70年代が全盛期で長田英吉、谷ナオミ等の作品多数。
概要
「8mm」は映画フィルムの幅を意味する。通常の映画の35mm、70mmより大幅に小さく、商業用ではなく家庭用の動画撮影・映写向きに開発された。ビデオが普及する前の1970年代に全盛期。
歴史
1932年(昭和7年)頃、家庭用に8mmフィルムが発売され出す。
1948年(昭和23年)、京都でモノクロ16mmのブルーフィルム『情欲[注 1]』が製作[1]。
1949年(昭和24年)、東京でモノクロ16mmのブルーフィルム『ラブゲーム』が製作[1]。
1952年(昭和27年)5月、本郷にある寺院で伊藤晴雨による写真・8mmの撮影会がおこなわれ、写真は粹古堂より頒布。モデル:小山康子、撮影:武田湖舟[2]。
1953年(昭和28年)、国産最初のカラー16mmのブルーフィルムが伊東で製作[1]。この頃からブルーフィルムの上映に8mmが使われ出す[1]。
1956年(昭和31年)、8mmのブルーフィルムの販売が広がると共に、取締もきびしくなる[1]。
1974年(昭和49年)7月、問題SM小説1974年(昭和49年)7月号の背表紙裏の広告に「向井文学の映像化」として『足の下の心情』の8mm映画の広告。制作はオリジナルの会気付『丸木佐道の告白』製作委員会、とある。
1979年(昭和54年)頃、コバルト社が長田英吉作・演出のオサダ・ゼミナール8mm作品を代理販売していた。
谷ナオミ8mm作品
- 「特殊三角関係」(8mm)
- 「お伝色ざんげ」(8mm)
- 「裏町色ざんげ 谷ナオミ T-360」(8mm, ライリー)
- 「縛りの美学 谷ナオミ T-361」(8mm, ライリー)
- 「縛る!」 (8mm)
- 「ラブロマンシリーズ しばり肌 PT3027」 (8mm, 制作:日活株式会社、提供:東映株式会社、販売:富士映像システム株式会社)(『お柳情炎 縛り肌』(日活, 1975.06.18)を8mmに編集したもの)
- 「ラブロマンシリーズ 黒バラ夫人 PT3301」 (8mm, 制作:株式会社にっかつ、販売:東映芸能ビデオ株式会社)(『黒薔薇夫人』(日活, 1978.4.1)を8mmに編集したもの)
- 「ラブロマンシリーズ なわ肌 PT3302」 (8mm, 制作:株式会社にっかつ、販売:東映芸能ビデオ株式会社)(『新妻地獄』(日活, 1975.12.06)を8mmに編集したもの)
- 「のり合い妻」 (8mm 制作:ワールドシネ アンド ビデオ、販売:サン・グラフ)
トピック
- 1974年(昭和49年)に玉井敬友が向井一也を梅田「シアター喫茶・スキャンダル」に呼んだきっかけは、向井一也の8mm映画作品『足の下の心情』を観て興味をもったため。向井一也は髭をはやした無口な男性で、芝居は哲学的な内容だった[3]。
引用文献
注釈
- ↑ 別名が『強盗』