「レイ」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
22行目: | 22行目: | ||
1975年(昭和50年)、[[SMファンタジア]]6月号-9月号に「クラブレイ(スナック方式)」の広告。「このたびは大変ご迷惑をおかけいたしました。12月9日より従来どおり営業致します」とある。1974年の12月か? | 1975年(昭和50年)、[[SMファンタジア]]6月号-9月号に「クラブレイ(スナック方式)」の広告。「このたびは大変ご迷惑をおかけいたしました。12月9日より従来どおり営業致します」とある。1974年の12月か? | ||
1987年(昭和62年)の[[SMシークレット]] | 1987年(昭和62年)の[[SMシークレット]]にSMクラブ「スナック・レイ」として広告。電話番号は1975年(昭和50年)[[SMファンタジア]]の広告と同じ。 | ||
1993年(平成5年)、[[SMスピリッツ]] | 1993年(平成5年)、[[SMスピリッツ]]5月号にSMクラブ難波「クラブ・レイ」として広告。電話番号は1975年(昭和50年)[[SMファンタジア]]の広告と同じ。 | ||
==関連記事== | ==関連記事== |
2016年7月29日 (金) 09:50時点における版
1971年(昭和46年)頃、太田正典が心斎橋にオープンした女王様スナック。SMクラブの歴史で重要な位置。辻村隆や春川ナミオが好み、TVなどでも話題に。
概要
太田正典が始めた70年代前半に大阪にあった女王様スナック。奇譚クラブにしばしばその記事が出てくる。
別名
スナック・レイ、クラブ・レイ
所在地
歴史
1971年(昭和46年)10月25日、SMスナックを前面に出して営業[2]。
1972年(昭和47年)1月、 奇譚クラブ1月号の辻村隆サロン楽我記に「レイ」の話題が出てくる。「マダムは知る人ぞ知るサドの女王」とある。
1973年(昭和48年) 頃、SMクラブとしての「レイ」を別個にオープンした模様[3]。
1974年(昭和49年)5月10日、よみうりテレビ「朝のワイドショー」で桂朝丸の潜入ルポ[4]。
1975年(昭和50年)、SMファンタジア6月号-9月号に「クラブレイ(スナック方式)」の広告。「このたびは大変ご迷惑をおかけいたしました。12月9日より従来どおり営業致します」とある。1974年の12月か?
1987年(昭和62年)のSMシークレットにSMクラブ「スナック・レイ」として広告。電話番号は1975年(昭和50年)SMファンタジアの広告と同じ。
1993年(平成5年)、SMスピリッツ5月号にSMクラブ難波「クラブ・レイ」として広告。電話番号は1975年(昭和50年)SMファンタジアの広告と同じ。
関連記事
エピソード
- 辻村隆の夫人や末娘もレイを訪れている[4]。
- 春川ナミオが好む。「(レイ)のマスターはずっと昔から知っています。雑誌以外でSMの世界と接点を持ったのは『レイ』のマスターがきっかけかな。あの人は、『レイ』の前にSMスナックみたいなのをやっていたんですよ。『レイ』と同時期くらいかな」[5]。
- いそのえいたろうは「七三年、大阪にオープンしたクラブレイがSMの第一号です。穴蔵風の店内には滑車がブラ下がっていて、お客が女王様と軽いSMプレーを楽しむ。ところが、プレーがどんどんエスカレートしたので、近くのホテルヘお二人で行ってくださいとSMの出張プレーに変わっていくんです」と述べている[3]。
- 1990年代後半に五反田に「クラブレイ」が存在したが、関連は不明。「再来!!」「名門の名を受け継いだ」と宣伝している。
- ネットでの書き込みには「ミナミ、三津寺の雑居ビル地下の奥にある関西SM発祥のクラブ・レイ。 店内で¥5000、何人かとお話したあとオキニを指名して 近くの「銀の山」というHOTELに入ってPLAY 」とある。
- マゾヒズムに花束を!「M男の軌跡 」にはレイの店内の写真が。
引用文献
注釈
- ↑ 現在の中央区心斎橋2-8-33