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1930年代中頃、モデルとして使ったM女Holly Faramと交際を始める<ref name="abso"></ref>。 | 1930年代中頃、モデルとして使ったM女Holly Faramと交際を始める<ref name="abso"></ref>。 | ||
1937年(昭和12年) | 1937年(昭和12年)、「Achilles」のブランド名でフェティッシュシューズの通信販売を始める。1939年(昭和14年)まで続く<ref group="注">当初、実際に販売するつもりはなく、極めて高い定価をつけた。カタログ希望者のリストを、将来の雑誌製作に備えて集めるつもりだったが、実際に注文が来てしまったので、履き物の製作も始めた。</ref><ref name="Bienvenu"></ref>。 | ||
1940年(昭和15年) | 1940年(昭和15年)、大戦により雑誌発行計画は中止。オーストラリー軍に入隊<ref name="Wiki"></ref>。 | ||
1942年(昭和17年)、Holly Faramと結婚<ref name="abso"></ref>。 | 1942年(昭和17年)、Holly Faramと結婚<ref name="abso"></ref>。 | ||
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1946年(昭和21年)、フェティシュマガジン『[[Bizarre]]』を発刊<ref group="注"> | 1946年(昭和21年)、フェティシュマガジン『[[Bizarre]]』を発刊<ref group="注">第1号のみはカナダから発行。5000部を2週間で売る。2号からはニューヨークで製作(Bienvenu 1998)。</ref>。1959年まで続く。 | ||
1957年(昭和32年)、『[[Bizarre]]』を20号まで出した時点でロサンジェルスに移る<ref name="sm201">[http://www.backdrop.net/sm-201/index.php?title=Bizarre_magazine SM-201]より</ref>。[[John Willie]]の秘書に所有権が委譲<ref name="Wiki">[http://wiki.bmezine.com/index.php/Bizarre_Magazine_(US) Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”]の項より。</ref>。 | 1957年(昭和32年)、『[[Bizarre]]』を20号まで出した時点でロサンジェルスに移る<ref name="sm201">[http://www.backdrop.net/sm-201/index.php?title=Bizarre_magazine SM-201]より</ref>。[[John Willie]]の秘書に所有権が委譲<ref name="Wiki">[http://wiki.bmezine.com/index.php/Bizarre_Magazine_(US) Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”]の項より。</ref>。 |
2010年4月4日 (日) 14:36時点における版
ジョン・ウィリー 1902年(明治35年)-1962年(昭和37年)
活動内容
米国のフェティシュ写真家、絵師、文筆家、編集者。ボンデージ写真家。Irving Klaw、Eric Stanton, Enegなどの1950年代のレトロ・ボンデージ運動の立役者に大きな影響を与えた。
別名
John Alexander Scott Coutts、ジョン・ウィリー。なお、Willieは俗語で「ペニス」を意味する[1]。
略歴
1902年(明治35年)、シンガポールに生まれ、英国で育つ。英国陸軍士官学校を中退。
1921年(大正10年)、英国陸軍士官学校「Sandhurst」に入学[2]。
1925年(大正14年)、ナイトクラブのホステスであったEveline Fisherと結婚[注 1]。軍に無届けで結婚したために懲戒処分を受けオーストラリアに配属[2]。
1932年(昭和7年)、『London Life』に出会う。ハイヒール販売商人と知己となる[注 2][3]。
1935年(昭和10年)、『London Life』2月号から、John Willieの名で絵をいくつか発表[注 3][3]。
1930年代中頃、モデルとして使ったM女Holly Faramと交際を始める[2]。
1937年(昭和12年)、「Achilles」のブランド名でフェティッシュシューズの通信販売を始める。1939年(昭和14年)まで続く[注 4][3]。
1940年(昭和15年)、大戦により雑誌発行計画は中止。オーストラリー軍に入隊[1]。
1942年(昭和17年)、Holly Faramと結婚[2]。
1945年-1947年、ニュヨークに移る[注 5]。Holly Faramはオーストラリアに残る。
1946年(昭和21年)、フェティシュマガジン『Bizarre』を発刊[注 6]。1959年まで続く。
1957年(昭和32年)、『Bizarre』を20号まで出した時点でロサンジェルスに移る[4]。John Willieの秘書に所有権が委譲[1]。
1960年(昭和35年)、『ジョン・ウイリー画集』が画報風俗奇譚第6集として発刊。画報風俗奇譚では何回か特集があった模様。
1961年(昭和36年)、脳腫瘍にかかる[2]。
1962年(昭和37年)、英国ガーンジー島で一文無しの状態で死去[1]。
1963年(昭和38年)、風俗奇譚1月号で『グゥエンドリン物語』が出ている。
1964年(昭和39年)、あまとりあ社からJohn Willie, Stanton, Enegなどを紹介した『ショッキング画集1』が発行され、そこに「謎の人物、ジョン・ウィリーについて」を藤見郁(濡木痴夢男)と森下高茂が書いている。
エピソード
- 1957年(昭和32年)-1961年(昭和36年)のいわゆるハリウッド時代のBondageは、1953年(昭和28年)-1956年(昭和31年)の奇譚クラブや裏窓に掲載された緊縛の影響を受けている[5]。
- 「スウィート・グウェンドリン(Sweet Gwendoline)」はボンデージ・コミックの元祖。
- しばしば『Leonardo Da Vinci of fetish』と呼ばれる[1]。
- 「蜂の胴」「ポニーガール」が好きなテーマ。
- バンジョー奏者でもあった[1]。
代表作
雑誌
- 『Bizarre』
- Eric Kroll『The Complete Reprint of John Willie's Bizarre』(Taschen, 2005)
写真集
- 『The First John Willie Bondage Photo Book』(London Ent. Ltd., 1978)
- 『The Second John Willie Bondage Photo Book』(London Ent. Ltd., 1978)
- 『Plusieurs Possibilites』(Futuropolis, 1985)
- 『A John Willie Portfolio, n.1』(London Ent. Ltd., 1987)
劇画
- 『The Adventures of Sweet Gwendoline』(「甘味なるグウェンドリンの降伏」「グウェンドリンの悲しい屈服」などと訳される。全65篇)。
- 『ショッキング画集 1』(あまとりあ社, 1964)
- 『The Art of John Willie - Sophisticated Bondage, 1946 1961』(Glittering Images, 1990)
小説
- 『The Magic Island』
- 『From Girl to Pony』
日本での初期紹介
- 『ジョン・ウイリー画集』画報風俗奇譚第6集、1960年(昭和35年)11月
- 『グエンドリンの降伏と冒険』画報風俗奇譚第12集、1961年(昭和36年)5月
- 『続・グエンドリンの降伏』画報風俗奇譚第15集、1961年(昭和36年)8月
- 『アメリカ絵物語 グェンドリン物語』裏窓、1964年(昭和39年)10月
- 『絵物語 グェンドリン物語』裏窓、1964年(昭和39年)11月
- 『Sale 2, No. 32 - ジョン・ウィリー・ボンデージ 』(フィクション・インク, 1987)
- 船津歩・大類信訳『ビザール・コレクション』1998年(平成10年), 二見書房
参考資料
注釈
つながり
Irving Klaw Fakir Musafar Eric Stanton Bettie Page