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*1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)年まで、横溝正史は捕物帳や時代小説を定期連載している。その第一弾となる「不知火捕物草紙」は乾信一郎から依頼を受けて書かれ、当時の事を横溝はエッセイの中で詳しく書いている。 | *1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)年まで、横溝正史は捕物帳や時代小説を定期連載している。その第一弾となる「不知火捕物草紙」は乾信一郎から依頼を受けて書かれ、当時の事を横溝はエッセイの中で詳しく書いている。 | ||
*昭和20年代中頃は当時の新鋭作家だった高木彬光や島田一男も探偵小説や犯罪小説を寄稿している。高木の長編「地獄の舞姫」は連載途中で中絶しているが、その理由は詳らかではない。 | *昭和20年代中頃は当時の新鋭作家だった高木彬光や島田一男も探偵小説や犯罪小説を寄稿している。高木の長編「地獄の舞姫」は連載途中で中絶しているが、その理由は詳らかではない。 | ||
==注目作品== | |||
*[[伊藤晴雨]]『'''よろづ女性折檻史'''』[[講談雑誌]] 1930年(昭和5年)11月号 | |||
== 引用文献== | == 引用文献== |
2013年2月5日 (火) 08:21時点における最新版
こうだんざっし、1915年(大正4年)ー1954年(昭和29年)
概要
1915年(大正4年)に創刊され1954年(昭和29年)までほぼ40年間続いた長寿雑誌。講談、落語の速記を掲載する娯楽雑誌として、編集人:生田蝶介で創刊。生田蝶介は白井喬二などを育てて、大衆文学誌のさきがけとなる。昭和に入り、真野律太が編集人の時代には実話雑誌としての性格を強め、この時代に伊藤晴雨などが寄稿している。岩田専太郎のデビューは1920年(大正9年)の講談雑誌誌上とされている。戦前には横溝正史、戦後には渡辺啓助が連載している。
発行年・出版社
1915年(大正4年)4月創刊、博文館
1949年(昭和24年)、博友社
1954年(昭和29年)、10月号で休刊。
発行人・編集人
編集人:生田調介[注 1](1915-1926)
編集兼発行人:森庄助(1926ー )
編集兼発行人:森下岩太郎[注 2](1928-1931)
編集人:真野律太(19??-1935)
編集人:上塚貞雄(1935-
編集人:風間慎一
編集兼発行人:大橋進一(1943?ー1947?)
編集人:風間眞一、発行人:高森栄次(1949?-)
主な出来事
1915年(大正4年)、4月号で創刊。
1920年(大正9年)、1月号に白井喬二『怪建築十二段返し』が掲載。大衆文学の登場。
1920年(大正9年)、3月号に岩田専太郎のデビュー作、竜斎貞山「音羽屋火事」、斎藤金鴬「床下の小函」が掲載。
1930年(昭和5年)、11月号に伊藤晴雨、大橋月皎の名前が。
1931年(昭和6年)、4月増大号に伊藤晴雨、大橋月皎の名前が。
1931年(昭和6年)6月、『博文館三十周年記念倍大増刊』を発行。
1932年(昭和7年)、1月号(18巻1号)の編集が伊藤晴雨。
1938年(昭和13年)、1月より横溝正史「人形佐七捕物帳」連載開始(全32話)。戦後になってから「人形佐七捕物文庫」として連載再開。
1945年(昭和20年)、月刊として刊行されず5冊のみ刊行。
1946年(昭和21年)、10月より渡辺啓助「青春探偵」が連載される(連作短編全6話)。
1949年(昭和24年)、博友社を創立し、博文館から発行を引き継ぐ。
1954年(昭和29年)、10月号で休刊。
エピソード
- 戦時中は雑誌のページ数が少なくなり、戦意高揚小説や海洋小説、現代小説の掲載が多くなる。主要執筆陣として角田喜久雄、海野十三、山本周五郎の名前が挙げられる。
- 1922年(大正11年)に生田蝶介編集長の勧めで國枝史郎(大学時代の友人)が「蔦葛木曾桟」を連載開始。
- 1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)年まで、横溝正史は捕物帳や時代小説を定期連載している。その第一弾となる「不知火捕物草紙」は乾信一郎から依頼を受けて書かれ、当時の事を横溝はエッセイの中で詳しく書いている。
- 昭和20年代中頃は当時の新鋭作家だった高木彬光や島田一男も探偵小説や犯罪小説を寄稿している。高木の長編「地獄の舞姫」は連載途中で中絶しているが、その理由は詳らかではない。