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*「[[新派]]という名称は明治三六年頃と記憶して居る」
*「[[新派]]という名称は明治三六年頃と記憶して居る」
*壮士芝居の歴史を語っている。
*壮士芝居の歴史を語っている。
 
:1889年(明治22年)6月12日、大阪新明座での[[角藤定憲]]の旗揚げ公演の演題は『豪胆の書生』『勤王美談上野旗風』で、「[[中将姫雪責の段|中将姫の雪責]]」を世話で焼き直したもの。
*昔の狂言作者(桜田治助)も「見物に受ける狂言を書こうと思えば人気のある美しい女形を桜の木の下に荒縄で縛って酷い責め方をすれば大抵の場合は大入」
*[[新派]]が旧派を凌ぐ勢いで流行ったのも「女の責場を以て低級の観客に媚びたのが成功した」
*最も'''女の責場が流行したのは明治三〇年以降三六・七年'''。





2012年11月12日 (月) 22:28時点における版

伊藤晴雨 (1882-1961)

概要

内容

第1回

  • 伊藤晴雨其の頃を語る(一) 新派劇の責場奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
  • 新派は「女の縛られる場面を観客の吸引策として成長して来た」。
  • 新派という名称は明治三六年頃と記憶して居る」
  • 壮士芝居の歴史を語っている。
1889年(明治22年)6月12日、大阪新明座での角藤定憲の旗揚げ公演の演題は『豪胆の書生』『勤王美談上野旗風』で、「中将姫の雪責」を世話で焼き直したもの。
  • 昔の狂言作者(桜田治助)も「見物に受ける狂言を書こうと思えば人気のある美しい女形を桜の木の下に荒縄で縛って酷い責め方をすれば大抵の場合は大入」
  • 新派が旧派を凌ぐ勢いで流行ったのも「女の責場を以て低級の観客に媚びたのが成功した」
  • 最も女の責場が流行したのは明治三〇年以降三六・七年