「講談雑誌」の版間の差分
提供:SMpedia
(→主な出来事) |
|||
15行目: | 15行目: | ||
編集人:風間慎一 | 編集人:風間慎一 | ||
== 主な出来事== | == 主な出来事== | ||
1915年(大正4年)、4月号で創刊。 | |||
1920年(大正9年)、1月号に白井喬二『'''怪建築十二段返し'''』が掲載。大衆文学の登場。 | 1920年(大正9年)、1月号に白井喬二『'''怪建築十二段返し'''』が掲載。大衆文学の登場。 | ||
24行目: | 26行目: | ||
1932年(昭和7年)、1月号(18巻1号)の編集が[[伊藤晴雨]]。 | 1932年(昭和7年)、1月号(18巻1号)の編集が[[伊藤晴雨]]。 | ||
1938年(昭和13年)、1月より横溝正史「人形佐七捕物帳」連載開始(全32話)。戦後になってから「人形佐七捕物文庫」として連載再開。 | |||
1945年(昭和20年)、月刊として刊行されず5冊のみ刊行。 | |||
1946年(昭和21年)、10月より渡辺啓助「青春探偵」が連載される(連作短編全6話)。 | |||
1954年(昭和29年)、10月号で休刊。 | |||
== エピソード== | == エピソード== |
2011年6月3日 (金) 10:31時点における版
こうだんざっし
概要
1915年(大正4年)に創刊され1954年(昭和29年)までほぼ40年間続いた長寿雑誌。講談、落語の速記を掲載する娯楽雑誌として、編集人:生田蝶介で創刊。生田蝶介は白井喬二などを育てて、大衆文学誌のさきがけとなる。昭和に入り、真野律太が編集人の時代には実話雑誌としての性格を強め、この時代に伊藤晴雨などが寄稿している。
発行年・出版社
1915年(大正4年)10月創刊(要確認)、博文館
発行人・編集人
編集人:生田蝶介(1915-1926)
編集人:真野律太(1928-1935)
編集人:上塚貞雄(1935-
編集人:風間慎一
主な出来事
1915年(大正4年)、4月号で創刊。
1920年(大正9年)、1月号に白井喬二『怪建築十二段返し』が掲載。大衆文学の登場。
1920年(大正9年)、3月号に岩田専太郎のデビュー作、竜斎貞山「音羽屋火事」、斎藤金鴬「床下の小函」が掲載。
1930年(昭和5年)、11月号に伊藤晴雨、大橋月皎の名前が。
1931年(昭和6年)、4月増大号に伊藤晴雨、大橋月皎の名前が。
1932年(昭和7年)、1月号(18巻1号)の編集が伊藤晴雨。
1938年(昭和13年)、1月より横溝正史「人形佐七捕物帳」連載開始(全32話)。戦後になってから「人形佐七捕物文庫」として連載再開。
1945年(昭和20年)、月刊として刊行されず5冊のみ刊行。
1946年(昭和21年)、10月より渡辺啓助「青春探偵」が連載される(連作短編全6話)。
1954年(昭和29年)、10月号で休刊。