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* | *絹吹悠紀夫『考察 辻村隆研究』[[奇譚クラブ]]1971年(昭和46年)2月号、[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197102/01/007.html p10] | ||
*絹吹悠紀夫『辻村隆研究「SM写真構成家としての辻村隆」』[[奇譚クラブ]]1971年(昭和46年)4月号 | *絹吹悠紀夫『辻村隆研究「SM写真構成家としての辻村隆」』[[奇譚クラブ]]1971年(昭和46年)4月号 | ||
* | *絹吹悠紀夫『辻村隆研究 2「SM写真構成家としての辻村隆」』[[奇譚クラブ]]1971年(昭和46年)5月号、[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197105/197105_043.html p190] | ||
==関連文献== | ==関連文献== |
2010年9月30日 (木) 23:17時点における版
つじむら たかし、1921年(大正10年)10月-1987年(昭和62年)
活動内容
緊縛師。文筆家。
別名
Takashi Tsujimura、緑猛比古、信土寒郎
略歴
1921年(大正10年)10月、堺市に生まれる。
1920年代、小学校3,4年の頃、泥棒ごっこで木に縛り付けられることに奇妙な快感を覚える[1]。
1937年(昭和12年)頃、満州に渡る。前夜、当時の恋人(後の夫人)を縛ったのが初めての緊縛経験[1]。
1948年(昭和23年)、復員して金物屋を始めた頃に奇譚クラブを知り、信土寒郎の名で投稿した作品が採用。
1951年(昭和26年)この頃から奇譚クラブに在籍。同誌1951年1月号に辻村隆の名で執筆。
1951年(昭和26年)7月、ヌード写真の撮影。奇譚クラブ1952年の1月号に掲載されている[2]。
1952年(昭和27年)夏、立花郁子を実験的に縛り[2]、次いで川端多奈子を本格的に縛る[注 1]。
1953年(昭和28年)、奇譚クラブ5月号に『荒縄による緊縛感のスポット』構成:辻村隆、撮影:塚本鉄三。
1956年(昭和31年)、奇譚クラブ4月号から『話の屑籠』連載開始。1960年(昭和35年)1月号まで続く。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ5月号から『サロン我楽記」を連載開始[注 2]。1973年(昭和48年)3月号まで105回続く。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号から『カメラハント』連載開始。1973年(昭和48年)3月号まで続く。
1968年(昭和43年)、石井輝男監督『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導。その様子は[4]に詳しい。団鬼六が天尾完次に紹介[5]。
1968年(昭和43年)9月24日、11PMに出演[注 3][6]。28日封切りの『徳川女刑罰史』のプロモーション。
1969年(昭和44年)、石井輝男監督『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』(東映)で緊縛指導。自らも木樵役で出演。続いて同じく石井監督の『徳川いれずみ師 責め地獄』で緊縛指導。
1969年(昭和44年)10月28日、ローズ秋山、福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演[7]。
1970年(昭和45年)10月、篠田正浩『沈黙』での緊縛シーンに関して助言[注 4]。
1971年(昭和46年)3月、台湾にてSMハント[注 5]。
1971年(昭和46年)、「週刊サンケイ」で田中陽造のインタビューを受ける[注 6]。
1971年(昭和46年)、中島貞夫監督『性倒錯の世界』(東映)に出演。鈴木則文監督『温泉みみず芸者』に役人役で出演。
1973年(昭和48年)3月号、『カメラハント』『サロン我楽記」連載終了[注 7]。
1973年(昭和48年)、SMキング7月増刊号で特集「縄師 辻村隆」
エピソード
- 奈良を中心に活動した。
- 陸軍の輜重(しちょう)兵(=後方支援隊)。(美濃村伝聞。極楽商売)。従軍4年。
- 戦後の職業は通説では、金物屋、経理、衛生検査技師だが、詳細は不明。学校教師との説もある。
- 「戦争に引っ張られる前夜、ひそかに憧れていたいとこの女性から、『私をあなたの好きなようにしていいのよ』といわれて、高揚するままに腰ひもで縛った。」「その時の感情が忘れられず、戦場でも『もう一度彼女を縛りたい。こんあところでは死にたくない』と思い続けていた」(美濃村伝聞。極楽商売)
- 「古書の緊縛手法の本を開き乍ら、あれこれと緊縛し[6]」
- 1976年(昭和51年)頃は、縛りの方から遠ざかり、「おしっこ」に興味を持っているとインタビューに答えている[1]。
- 伊藤晴雨との交友について奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。
- 奇譚クラブ1954年(昭和29年)10月号の「変形後手縛り」には「アメリカ雑誌のポニイの後手の縛り方からヒントを得て」とある。
代表作
『緊縛モデルの素顔』
後の『カメラハント』につながる、モデルのプライベートな部分にまで踏み込んだルポ。奇譚クラブの発禁の影響で3回で終了。
- 辻村隆『緊縛モデルの素顔』1955年(昭和30年)3月号、川端多奈子と杉芙美
- 辻村隆『緊縛モデルの素顔』1955年(昭和30年)4月号、川辺砂登子と伊吹真佐子
- 辻村隆『緊縛モデルの素顔』1955年(昭和30年)5月号、村田那美子と坂口利子
- 辻村隆『ニューモデルのプロフィル』1955年(昭和30年)10月号、加賀利江子と藤田節子と須川令子
『話の屑篭』
『SMカメラハント』
奇譚クラブ1964年(昭和39年)11月号から1973年(昭和48年)3月号までの8年5月(うち、2号が休載)にわたり連載した名物記事。合計1394枚の写真が発表された[8]。
代表的な記事
- 1964年(昭和39年)11月号、青木順子
- 1964年(昭和39年)12月号, p190、山原清子
- 1965年(昭和40年)2月号, p100、竹野ひろ子
- 1966年(昭和41年)3月号、梨花悠紀子
- 1967年(昭和42年)6月号、関谷富佐子
- 1967年(昭和42年)8月号、秋山夫妻
- 1968年(昭和43年)4月号、辰巳典子
- 1968年(昭和43年)5月号、谷ナオミ
- 1968年(昭和43年)12月号、「徳川女刑罰史」
- 1969年(昭和44年)2月号、「元禄女系図」
- 1969年(昭和44年)3月号、渚マリ
- 1969年(昭和44年)7月号、「徳川いれずみ師・責め地獄」
- 1969年(昭和44年)12月号、「SMカメラハント回顧 追憶の甘き花びらの群れ」
- 1970年(昭和45年)5月号、続・秋山夫妻
- 1970年(昭和45年)9月号、谷山久美子
- 1970年(昭和45年)10月号、渡部好美
- 1973年(昭和48年)2月号、秋山夫妻
その他
- 辻村隆・塚本鉄三『後手と高手小手による緊縛美の考察』奇譚クラブ1953年(昭和28年)4月号, 口絵 モデルは川端多奈子
- 辻村隆『縄の四十八手』奇譚クラブ1954年(昭和29年)6月号, グラビア
- 辻村隆『緊縛の構成と責めのアイデア』奇譚クラブ1954年(昭和29年)6月号, p36
- 辻村隆『責め撮影行 野外縛りの記録』奇譚クラブ1954年(昭和29年)9月号, p200。モデルは伊吹真佐子
- 辻村隆『夜光る』奇譚クラブ1958年(昭和33年)1月号, p140。マニア、仁川有三氏との出会い。小説?
- 辻村隆『観賞用女性』1960年(昭和35年)12月号, p71。梨花悠紀子との出会いについて。
- 辻村隆『私を責めてください』1961年(昭和36年)5月号, p68
- 辻村隆『雑踏の中の孤独』1961年(昭和36年)11月号, 口絵
- 『辻村隆語録 SMプレイ・ルール』奇譚クラブ1971年(昭和46年)10月号, p77
辻村隆研究
- 絹吹悠紀夫『考察 辻村隆研究』奇譚クラブ1971年(昭和46年)2月号、p10
- 絹吹悠紀夫『辻村隆研究「SM写真構成家としての辻村隆」』奇譚クラブ1971年(昭和46年)4月号
- 絹吹悠紀夫『辻村隆研究 2「SM写真構成家としての辻村隆」』奇譚クラブ1971年(昭和46年)5月号、p190
関連文献
下川耿史「極楽商売―聞き書き戦後性相史」(筑摩書房、1998)
参考資料
- ↑ 1.0 1.1 1.2 下川耿史『許されざる人々のエロス:極限を追求する辻村隆氏』週刊サンケイ, 1976年(昭和51年)4月15日号, p159-p161
- ↑ 2.0 2.1 辻村隆『モデル女のまぞひずむ』奇譚クラブ1954年(昭和29年)10月号, p274
- ↑ 『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。
- ↑ 辻村隆 『「徳川女刑罰史」のスターを縛る』』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)11月号、辻村隆 『「徳川女刑罰史」ロケ日記 』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)11月号、辻村隆『S・Mカメラハント「徳川女刑罰史」(秘)銘々伝』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)12月号、194-217.
- ↑ 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
- ↑ 6.0 6.1 辻村 隆『カメラ・ハント楽我記』奇譚クラブ、1970年(昭和45年)12月号臨時増刊号、25-56.
- ↑ 奇譚クラブ1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」
- ↑ 辻村隆『"耽奇房"我楽多控』奇譚クラブ1973年(昭和48年)4月号, p144
注釈
- ↑ 川端に出会う前は、夫人を時々縛って楽しむといった程度だったと、週刊サンケイのインタビューに答えている。
- ↑ 1956年(昭和31年)1月号より断続的に前身ともいえる『話の屑篭』を書いていた。
- ↑ 大阪11PMで藤本義一が司会。。辻村はサングラスをかけていた。「TV局は吉田を再三誘ったが吉田はでなかった」とある
- ↑ 奇譚クラブ1971年(昭和46年)1月号の辻村隆 p237 「サロン楽我記」によると、「大映撮影所から電話がかかり」「『沈黙』の緊縛指導にご協力願いたい」「篠田監督に紹介され」「キシリタンが捕吏に捕らえられる際の早縄の掛け方」を「捕吏になる俳優さんにご披露」とある。ろことが、奇譚クラブ1971年(昭和46年)2月号の辻村隆 p234 「サロン楽我記」には、「資金繰りがつかず製作中止」「岩下志麻さんらと相まみえる機会も遂になくした」とある。
- ↑ 奇譚クラブ1971年(昭和46年)6月号, p154によると、友人のドクター氏と。
- ↑ 奇譚クラブ1971年(昭和46年)5月号, p235によると、団鬼六の紹介で実現。「異能人間シリーズ」の1つ。
- ↑ 「数年来の持病の、糖尿による、コレステロールの増加や、血糖値の高さに毎月、連続の執筆は、何とも精神的な負担が重く」とある。