「向井一也」の版間の差分

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==代表作==
==代表作==
*[[向井一也]] 『サディストの告白 足の下の心情』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)2月号
*[[向井一也]] 『サディストの告白 足の下の心情』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)2月号
*[[向井一也]] 『サディストの告白 排泄の捨て場』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)2月号
*[[向井一也]] 『サディストの告白 排泄の捨て場』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)2月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 4 三角点』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)4月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 4 三角点』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)4月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 5 白 + 黒』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)5月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 5 白 + 黒』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)5月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 6』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)6月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 6』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)6月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 7』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)7月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 7』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)7月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 8』[[サスペンスミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)8月号
*[[向井一也]] 『SMドキュメンタリー 8』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1973年(昭和48年)8月号
*1974年(昭和49年)、マガジン サスペンス・マガジン 1974(昭和49)年1月号
*1974年(昭和49年)、マガジン サスペンス・マガジン 1974(昭和49)年1月号
*『向井一也の舞台公演の熱気』[[サスペンスミステリーマガジン]]1975年(昭和50年)8月号
*『向井一也の舞台公演の熱気』[[サスペンス&ミステリーマガジン]]1975年(昭和50年)8月号


==参考資料==
==参考資料==

2010年12月3日 (金) 04:07時点における版

むかい かずや、19??年(昭和??年)-

活動内容

緊縛師。

別名

略歴

1964年(昭和39年)年頃、青木順子ショウを東京や名古屋で。

1968年(昭和43年)、劇団「新しい波」の設立[1][注 1]

1974年(昭和49年)頃、「オリジナルの会」[注 2]を開催しており、長田英吉が影響を受ける。

1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「奇クサロン」に舟橋一郎「向井一也青木順子の『サディストの告白』を観て」が掲載。

1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「編集部便り」に「大阪キタのサパークラブ『スキャンダル』で(向井一也氏の)『サディストの告白』が8月末に公開」とある。

エピソード

  • 青木順子と一緒にやっていたが青木は途中で病気になる。
  • 奇譚クラブ1965年(昭和40年)4月号に辻村隆の「青木順子だより」がある。それによると「青木順子ショウの向井一也氏より便りがあり」「名古屋の日劇ミュージックで10日間公演」「1月には東京「月光館」「本木セントラル」宇都宮「国際劇場」」。

代表作

参考資料

  1. 『サロン楽我記』奇譚クラブ 1968(S43)年11月号

注釈

  1. 連絡先は、新宿の実験小劇場モダンアート、あるいは名古屋の今池アングラ劇場内の向井常、とある。
  2. 例えば奇譚クラブ1974年11月号p233に「オリジナルの会主催「矛盾の告白」の案内(10.28-31, シアター・グリーン)、p242に8月公演の後書きがある。

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