「賀山茂」の版間の差分
提供:SMpedia
(→映画) |
(→略歴) |
||
12行目: | 12行目: | ||
1954年(昭和29年)、[[上田青柿郎]]の「縛りの撮影会」で緊縛を学ぶ<ref name="kaiko">賀山茂『縄愛回顧録』別冊[[S&Mスナイパー]]1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号まで連載。</ref>。当時、[[上田青柿郎|上田]]は[[辰巳出版]]にいたようだ<ref name="HP"></ref>。 | 1954年(昭和29年)、[[上田青柿郎]]の「縛りの撮影会」で緊縛を学ぶ<ref name="kaiko">賀山茂『縄愛回顧録』別冊[[S&Mスナイパー]]1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号まで連載。</ref>。当時、[[上田青柿郎|上田]]は[[辰巳出版]]にいたようだ<ref name="HP"></ref>。 | ||
1958年(昭和33年)、[[辻村隆]]と出会う<ref name="HP"></ref><ref group="注"> | 1958年(昭和33年)、[[辻村隆]]と出会う<ref name="HP"></ref><ref group="注">賀山は辻村との出会いを、「[[http://smpedia.com/index.php?title=奇譚クラブのモデル達#.E5.B1.B1.E5.8E.9F.E6.B8.85.E5.AD.90|山花清子]]の刺青完成会」の場であるとも書いていることがあり、話が合わない。</ref>。 | ||
1959年(昭和34年)、[[団鬼六]]と交友を始める<ref name="HP"></ref>。 | 1959年(昭和34年)、[[団鬼六]]と交友を始める<ref name="HP"></ref>。 | ||
1965年(昭和40年)頃、[[奇譚クラブ]] | 1965年(昭和40年)頃、[[奇譚クラブ]]主催の「[[http://smpedia.com/index.php?title=奇譚クラブのモデル達#.E5.B1.B1.E5.8E.9F.E6.B8.85.E5.AD.90|山原清子]]<ref group="注">1964年(昭和39年)12月号のカメラハントに登場</ref>の刺青完成会」に出席<ref name="kaiko"></ref>。 | ||
1966年(昭和41年)頃、[[団鬼六]]から[[谷ナオミ]]を紹介される<ref name="HP"></ref>。 | 1966年(昭和41年)頃、[[団鬼六]]から[[谷ナオミ]]を紹介される<ref name="HP"></ref>。 |
2010年9月23日 (木) 15:50時点における版
かやま しげる、1928年(昭和3年)(?)-
活動内容
緊縛師。実業家。映画製作。ビデオ制作。
別名
Shigeru Kayama、芳賀吉孝(本名)、賀山芳男
略歴
1954年(昭和29年)、上田青柿郎の「縛りの撮影会」で緊縛を学ぶ[2]。当時、上田は辰巳出版にいたようだ[1]。
1965年(昭和40年)頃、奇譚クラブ主催の「[[2]][注 2]の刺青完成会」に出席[2]。
1966年(昭和41年)頃、団鬼六から谷ナオミを紹介される[1]。
1968年(昭和43年)、団鬼六の『赤い拷問』(ヤマベ・プロ)のロケの見学。
1969年(昭和44年)、芳賀書店から出た団鬼六の『緊縛写真集』の製作に関与。
1979年(昭和54年)、六本木にSMサロン「SAMM」設立。
1980年(昭和55年)、早乙女宏美がSAMMに参加[1]。
1981年(昭和56年)、サム・ビデオ・センター設立。
1982年(昭和57年)、「復刊奇譚クラブ」の発刊に関与[注 3]。
1983年(昭和58年)、にっかつ「蛇の穴」の緊縛指導。
1984年(昭和59年)、芳友社設立。SAMMはメインレーベル。
2005年(平成17年)、ホームページ『賀山茂の世界』を開始(既に閉鎖)。
現在、h.m.p、芳友舎、銀河映像、ビデオバンク、メディア・ジャック、メディア・ワーク・ステーションからなる『芳友グループ』の会長。
エピソード
- 芳賀書店の芳賀家とは関係なし。
- ホウショウルビーの馬主としても有名。
代表作
映画
ビデオ
「花嫁人形」「眠らない天使たち」
雑誌
- 賀山茂『辻村隆氏との交遊記』復刊奇譚クラブ1982年(昭和57年)3月号
- 賀山茂『縄愛回顧録』別冊S&Mスナイパー1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号
- 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)から
参考資料
注釈
つながり
団鬼六 辻村隆 吉田稔 長田英吉 明智伝鬼 谷ナオミ 早乙女宏美 武いさを