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===明治大学===
===『刑事博物圖録 上卷』(明治大學刑事博物館, 1933)===
 
「拷問」の章に「駿河問の圖」「某藩における駿河問」の図2点が簡単な説明と共に示されている。後者は[[奇譚クラブのモデル達|奇譚クラブ]]に転載。
==参考となる文献教材==
==参考となる文献教材==
*[[伊藤晴雨]]『'''[[責の四十八手]]'''』([[粹古堂書店|粹古堂]], 1951.1)
*[[伊藤晴雨]]『'''[[責の四十八手]]'''』([[粹古堂書店|粹古堂]], 1951.1)

2024年8月31日 (土) 15:50時点における版

するがどい

概要

江戸時代に行われていたとされる幕府公認[注 1]ではない拷問の一種。および、それに由来する現代の緊縛法。手足を背中でひとつに結び吊り下げ、背中に重石を乗せ廻転させる。駿府町奉行彦坂九兵衛こと彦坂光正(1565-1632)が創案したとする記述が多い。17世紀初頭のイエスズ会士の日本見聞録に記述が残るので、おそらく、切支丹拷問のために考案されたのであろう。

別名

駿河問い 駿河問 駿河責 駿河問い縛り 駿河とひ 駿河問狀

英語表記

Surugadoi

解説

ペドゥロ・モレホン『続日本殉教録』(1621)

イエズス会士ペドゥロ・モレホン(Pedro Morejón, 1562 - 1639)は日本や中国で長期にわたる布教活動をおこない、それを"Historia y relación de lo sucedido en los Reinos de Japón y China" (1621)として出版している。その翻訳書が1973年にキリシタン文化研究会から『続日本殉教録』として出版されているが、その「第21章 惣太郎ルイスと称するキシリタンの経験した責め苦について」には、以下の様な記述がある。

私を責め苦の場所に連れて行き、手足を荒繩で縛ってから梁から吊し、私は弓なりになって宙に浮いた。それから何遍もぐるぐる廻転させ、縄は捩れ短くなり、私の体は殆んど梁に届くばかりになった。それから突然私を離すと、体の重みで急速にしかも激しく捩れがほどけたので、説明できない程心臓が苦しくなり、思考を失い、眼の前は真暗になった。逆廻転が終わると、意識朦朧していたので、われに返すため顔に水を掛けられ、その間ずっと信仰を棄てるよう執拗に、前と同じようにぐるぐる廻され、余りにもぐったりしてしまったので、たちどころにた。しかし、イエズスとマリアの御名を唱えると、いとも不可思議な力が感じられ、苦しみ害は繰返されたが、主イニズスは、信仰告白を強力に保てるよう、私に再び力を与え給うた。それから私の縄をほどき、床にうつ伏せにし、再び手足を強く後ろに縛り、前回と同じ左へと逆に廻し、縄が極度に捩られた時、私の体から手を離したので、急速に縄がほどけた出して、絶えず聖なる御名を唱え続けたので、非常に心の安まりとなり援助となった。この方法は駿河で案出されたので、人は駿河の責め苦と称している。

ここで記述されている駿河の責め苦が、いわゆる駿河問に相当する拷法と思われる。17世紀初め(1612ー4年、慶長17, 18年)の江戸・京都・駿府などの幕府直轄地における教会の破壊と布教の禁止を命じた幕府禁教令を受けて生み出された拷問法と思われる。なお、ペドゥロ・モレホンは1616年には”Breve relacion de la persecucion que huuo estos años contra la Iglesia de Iapon,...Mexico, 1616)”と題した関連図書も出版している[1]

静岡市によるジョン・セーリス見聞記(1613頃)

イギリス国王使節ジョン・セーリスが慶長18年(1613)頃に駿府郊外でキリシタン迫害を目撃し、報告していると静岡市のHPで紹介[2]。これには「駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。」と記述されているらしい。この記述のもととなった文献は調査中。

三浦浄心『慶長見聞集』(1640?)

寛永後期(1640年頃)の作ではないかと考えられている仮名草紙『慶長見聞集』の六之巻に駿河問いの記述がある。『慶長見聞集』には伝写による各種の版があるが、『雑史集』(国民文庫刊行会, 1912)に収載されている版[3]の「罪人共籠中法度定むる事」の章では

「見しは今、大鳥一兵衞と云者、江戶町に有て世にまれなる徒者、是によつてきんごくす。仔細は前にせいぜんふ委記せり。然に一兵衞能中東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前の由來を人々に語て聞せこのじふわうん。武州大鳥と云在所に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲み此十王たっあかつきれいむ堂に一七日籠り、まんずる曉靈夢のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしあゆに、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髪はかぶろにして立て三足歩みたり。皆人是あくき흔を見て、惡鬼の生れけるかと驚き、既にがいせんとせし處に、母是を見て云ひけるやうは、なうしばらく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。傳聞く、老子はせんわう神武天皇御宇五十七年に當てそこくへたんじやう、支那は周の二十二代宣王三年丁巳九月十四日也。たいないせいじん胎內に八十一年やどり、白髪に有つて生れ給ひぬ。故に老子と號す。成人の後、身の長一丈二尺、龍がん眼にしてひたひ廣く金色なり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にして紋あり。齒は四十喜八有り。足のうらに紋あり。手の內の筋直にしてまがらず、其形尤奇異なり。かやうのためしあれば鬼神にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其ろうない十王の二字をへんじて一兵衞と名付事、十方地獄中唯有一兵衞無二又無三の心なり。されば籠内をばざいにん地獄、外をしやばと罪人云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、數百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりきなる者共は他の食をうばひとる。無力の者わづらはしき者共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひたつしやばはりあひする事、餓鬼道の有樣なり。つらつら是を案ずるに、それがし娑婆にて十王といはれし身が、此地ごくへ來る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、佛は極樂のあるじとじゆんぎやくだつぶついちによぜんあくふしやくそんし、十王は地獄の主と成る事、是順逆の二道、魔佛一如にして、善惡不二の道理也。釋尊たうりてんしよぶつぼさつぢざうほさつらいあくせに御座て、十方の諸佛菩薩集り給ふ中において、地藏井につけてのたまはく、未來惡世の衆生をば、汝にふぞくす。惡道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、中有の罪人をたすけ、ぐんるゐしゆじやう或は十王と成て六道の群類をとぶらはんと毎日地獄に入り、衆生の身がはりに立て苦しみを請、諸々さいしゆじやうごぎやくざいの罪人をすくひ給ひぬ。經に一切衆生五逆罪を作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦をけつぢやうせいばいかんだいもくうけん事決定也と說かれたり。それ娑婆において泰時が記したる成敗の式目は、日本國の龜鑑題目十三人奉行の內仁知をかね、六人に文章を書事、六地藏六觀音を表す。十三人の奉行は十三佛とす。將限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奧州つがる、はつふ、そとの濱、西はちんぜい、鬼かいがしまどがしま海島、北は越後のあら海、佐渡島、南は大島、戶島、八丈へながし給ふ。扨一兵衞をばすねをもみひざをひしぎ、夜る晝問へども同類をばいはずしてにつこと打笑ひ、愚なる人々かな、からだをせめて、など心をばせめぬぞといへば、にくきやつが、くわうげんかなとて、荒手を入れかへて五日七日十日二十日水火のせめにあて、樣々に推問、がうもんすれども、更にくるしむ氣色なく、其心あくまでふわるものてきにして、誠に血氣の惡者也。そら笑ひするつらだましひ、せいりきこつがら人にかはつて見えにけり。皆人せむべきやうなしとて、あきれはて居たりしに、一兵衞云けるは、何とやらんいま程はあたりしづまり物さびしければ、物語しておのおのにねぶりさまさせ申すべし。われ武州八王寺の町酒やにむえつ)有て酒をのみしに、申すべし。われ武州八王寺の町酒やにむえつ)有て酒をのみしに、古無僧一人尺八を吹いて門に立ちたり。我此者をよび入れ、あら有難の修行や、御身ゆゑある人と見えたり。世におち人にやおはすらんと酒をもてなし、此一兵衞も若き比は尺八を吹きたり。古無殿の尺八一手望みなりといへば、此者曲を一手吹きたり。我聞て打笑ひ、しりをくりあげ尻を打たゝいて、古無殿の尺八ほどはわれしりにても吹くべしといへば、古無大きに腹を立て、無空空機の郷言かなわれいにしへは四姓の上首たりといえとも、今は世撿然ども先業をかへロ。宮崎なはなずしく確信の後に竹的ないかかすすと、い所村を外けしやうにんして、普化上人の跡をつぎ、一代教門の肝要出離解脫の道に入り、修行をはげますといへども、惡逆無道の一言にわれしんいのほのほやみすがたこそ替れども所存において替るべきか是非尻に吹せて聞べしといふ。此一兵衞も尤しりにて吹くべしといへば、互にかけ物をこのみしに、古無云ひけおやぢうだいこるは親重代に傳はる吉光のわきざし一腰持ちたりとて坐中へ出す。此一兵衞も腰の刀を出すべし。此刀と申すは、われしたはら鍛冶を賴み、三尺八寸のいか物作にうたせ、二十五までいき過ぎたりや、兵衞と名を切付、一命にもかへじと思ふ一腰を出す。町の者共兩方のかけ物を預り、一兵衞が尻にて吹く尺八きかんと云ふ。其時我古無が尺八おつとつてさかさまに取りなほし尻にて吹きければ、皆人聞て、實に古無が口にて吹きたるより、一兵衞が尻にて吹きたるが增りたるといへば、われ此あらそひにかちたり。各かやうの事にそにんあらば、八王寺町の者共へ尋給へと云。皆人聞きて、扨こそ一兵ひこさか衞木石にても非ず物をいひそめけるぞや。爰に彥坂九兵衞と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つの手足をうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を重荷におき、天井より繩をさげ中へよりあげ一ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、惣身のあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすが如し。一兵衞今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこし息をさすべしと繩をおろし、とひへ水をそゝぎ、口へ氣藥を入れ、扨もかひなし一兵衞同類をはやく申せいはずんば又あぐべし。なんぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衞いきのしたよりあらくるしやかなしや候いかなるせめにあふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいは此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人桐の木の杖をつき、母にはしさいの色を著て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云々。老いたる人は杖つき虫の身をがゞめるごとく行步自由ならず故に老人には昔より杖をゆるし給へるいはれ有り。禮記に五十にして家に杖つく、六十にして郷に杖つく、七十にして國に杖つく、八十にして朝に杖つくといへり。みちぬべき年の末々悅びのと云前句に、杖もゆるさん九重の內と若き人はつゝしみ有べき事也。

とある。ここに登場する大鳥一兵衞とは、江戸初期の侠客として有名な大鳥逸平(1588-1612)[4]のことであろう。記述されている「虚無僧の尺八を屁で上手く吹いてやる」といった賭けの逸話も大鳥逸平のものである[4]大鳥逸平は、各種拷問に耐えた逸話をもち、その1つととして、ここでは駿河問いによる厳しい責めにも口をわらなかった武勇伝が騙られている。駿河問いを創案したとされる駿府町奉行彦坂九兵衛こと彦坂光正(1565-1632)も実在の人物であるが、大鳥一兵衞が彦坂九兵衛の調査をおこなった部分が史実なのか、創作なのかは不明である。

『皇典講究所講演』(1895)

明治時代に神道や古典文学の研究・普及を目的として設立されたと思われる皇典講究所が1895年(明治28年)5月に発行した『皇典講究所講演 16[5]には

駿河問といふ拷法あり、駿河の町奉行彦坂九兵衛の創めしものにて、其法極めて残虐なりしと聞く、慶長見聞集、大島一兵衛組の條に、爰に彦坂九兵衛と云人、たくみ出せる駿河問とて、四ツの手足をうしろにまいし、一ツにくくり、背に石を重荷におき、天井より繩を下げ、中へよりあげ、一ふりふれい、只車を廻すに似て、惣身の油、かうべへ下り、油のたると、水を流すが如しと見ゆ」

とあり、上述の「慶長見聞集」に相当する部分の紹介と考えられる。

伊藤晴雨責の四十八手』(1951)

駿河責=「駿河の代官彦坂九郎兵衛の発明にかかるといふ。女の四肢を縛り土石を乗せて廻転せしむるもの。」とある。

森川哲郎日本拷問残酷史』(1970)

SMマガジン 1970年(昭和45年)9月号から連載。「侠客大島逸兵衛が、この拷問にあったり、屎水を喰わされたりした。寛永年間にも、曾根甚六という者の妻が、この拷問をおこなわれたという。」


『刑事博物圖録 上卷』(明治大學刑事博物館, 1933)

「拷問」の章に「駿河問の圖」「某藩における駿河問」の図2点が簡単な説明と共に示されている。後者は奇譚クラブに転載。

参考となる文献教材

参考となる緊縛教材

ギャラリー

引用文献

注釈

  1. 笞打石抱海老責釣責
  2. 刑事博物圖録(明治大學刑事博物館, 1933)』の転載

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