「テンプレート:駿河問い」の版間の差分
13行目: | 13行目: | ||
==解説== | ==解説== | ||
===三浦浄心『慶長見聞集』=== | ===三浦浄心『慶長見聞集』=== | ||
寛永後期(1640年頃)の作ではないかと考えられている仮名草紙『'''慶長見聞集'''』の六之巻に[[駿河問い]]の記述がある。『慶長見聞集』には伝写による各種の版があるが、『雑史集』(国民文庫刊行会, 1912) | 寛永後期(1640年頃)の作ではないかと考えられている仮名草紙『'''慶長見聞集'''』の六之巻に[[駿河問い]]の記述がある。『慶長見聞集』には伝写による各種の版があるが、『雑史集』(国民文庫刊行会, 1912)に収載されている版の「罪人共籠中法度定むる事」の章では「見しは今、大鳥一兵衞と云者、江戶町に有て世にまれなる徒者、是によつてきんごくす。仔細は前にせいぜんふ委記せり。然に一兵衞能中東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前の由來を人々に語て聞せこのじふわうん。武州大鳥と云在所に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲み此十王たっあかつきれいむ堂に一七日籠り、まんずる曉靈夢のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしあゆに、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髪はかぶろにして立て三足歩みたり。皆人是あくき흔を見て、惡鬼の生れけるかと驚き、既にがいせんとせし處に、母是を見て云ひけるやうは、なうしばらく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。傳聞く、老子はせんわう神武天皇御宇五十七年に當てそこくへたんじやう、支那は周の二十二代宣王三年丁巳九月十四日也。たいないせいじん胎內に八十一年やどり、白髪に有つて生れ給ひぬ。故に老子と號す。成人の後、身の長一丈二尺、龍がん眼にしてひたひ廣く金色なり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にして紋あり。齒は四十喜八有り。足のうらに紋あり。手の內の筋直にしてまがらず、其形尤奇異なり。かやうのためしあれば鬼神にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其ろうない十王の二字をへんじて一兵衞と名付事、十方地獄中唯有一兵衞無二又無三の心なり。されば籠内をばざいにん地獄、外をしやばと罪人云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、數百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりきなる者共は他の食をうばひとる。無力の者わづらはしき者共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひたつしやばはりあひする事、餓鬼道の有樣なり。つら〓〓是を案ずるに、それがし〓婆にて十王といはれし身が、此地ごくへ來る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、佛は極樂のあるじとじゆんぎやくだつぶついちによぜんあくふしやくそんし、十王は地獄の主と成る事、是順逆の二道、魔佛一如にして、善惡不二の道理也。釋尊たうりてんしよぶつぼさつぢざうほさつらいあくせに御座て、十方の諸佛〓集り給ふ中において、地藏井につけてのたまはく、未來惡世の衆生をば、汝にふぞくす。惡道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、中有の罪人をたすけ、ぐんるゐしゆじやう或は十王と成て六道の群類をとぶらはんと毎日地獄に入り、衆生の身がはりに立て苦しみを請、諸々さいしゆじやうごぎやくざいの罪人をすくひ給ひぬ。經に一切衆生五逆罪を作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦をけつぢやうせいばいかんだいもくうけん事決定也と說かれたり。それ娑婆において泰時が記したる成敗の式目は、日本國の龜鑑題目十三人奉行の內仁知をかね、六人に文章を書事、六地藏六觀音を表す。十三人の奉行は十三佛とす。限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奧州つがる、はつふ、そとの濱、西はちんぜい、鬼かいが | ||
2024年8月31日 (土) 08:57時点における版
するがどい
概要
江戸時代に行われていたとされる幕府公認ではない拷問の一種。および、それに由来する現代の緊縛法。手足を背中でひとつに結び吊り下げ、背中に重石を乗せ廻転させる。
別名
英語表記
Surugadoi
解説
三浦浄心『慶長見聞集』
寛永後期(1640年頃)の作ではないかと考えられている仮名草紙『慶長見聞集』の六之巻に駿河問いの記述がある。『慶長見聞集』には伝写による各種の版があるが、『雑史集』(国民文庫刊行会, 1912)に収載されている版の「罪人共籠中法度定むる事」の章では「見しは今、大鳥一兵衞と云者、江戶町に有て世にまれなる徒者、是によつてきんごくす。仔細は前にせいぜんふ委記せり。然に一兵衞能中東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前の由來を人々に語て聞せこのじふわうん。武州大鳥と云在所に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲み此十王たっあかつきれいむ堂に一七日籠り、まんずる曉靈夢のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしあゆに、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髪はかぶろにして立て三足歩みたり。皆人是あくき흔を見て、惡鬼の生れけるかと驚き、既にがいせんとせし處に、母是を見て云ひけるやうは、なうしばらく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。傳聞く、老子はせんわう神武天皇御宇五十七年に當てそこくへたんじやう、支那は周の二十二代宣王三年丁巳九月十四日也。たいないせいじん胎內に八十一年やどり、白髪に有つて生れ給ひぬ。故に老子と號す。成人の後、身の長一丈二尺、龍がん眼にしてひたひ廣く金色なり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にして紋あり。齒は四十喜八有り。足のうらに紋あり。手の內の筋直にしてまがらず、其形尤奇異なり。かやうのためしあれば鬼神にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其ろうない十王の二字をへんじて一兵衞と名付事、十方地獄中唯有一兵衞無二又無三の心なり。されば籠内をばざいにん地獄、外をしやばと罪人云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、數百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりきなる者共は他の食をうばひとる。無力の者わづらはしき者共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひたつしやばはりあひする事、餓鬼道の有樣なり。つら〓〓是を案ずるに、それがし〓婆にて十王といはれし身が、此地ごくへ來る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、佛は極樂のあるじとじゆんぎやくだつぶついちによぜんあくふしやくそんし、十王は地獄の主と成る事、是順逆の二道、魔佛一如にして、善惡不二の道理也。釋尊たうりてんしよぶつぼさつぢざうほさつらいあくせに御座て、十方の諸佛〓集り給ふ中において、地藏井につけてのたまはく、未來惡世の衆生をば、汝にふぞくす。惡道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、中有の罪人をたすけ、ぐんるゐしゆじやう或は十王と成て六道の群類をとぶらはんと毎日地獄に入り、衆生の身がはりに立て苦しみを請、諸々さいしゆじやうごぎやくざいの罪人をすくひ給ひぬ。經に一切衆生五逆罪を作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦をけつぢやうせいばいかんだいもくうけん事決定也と說かれたり。それ娑婆において泰時が記したる成敗の式目は、日本國の龜鑑題目十三人奉行の內仁知をかね、六人に文章を書事、六地藏六觀音を表す。十三人の奉行は十三佛とす。限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奧州つがる、はつふ、そとの濱、西はちんぜい、鬼かいが
「爰に彥坂九兵衞と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つの手足をうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を重荷におき、天井より繩をさげ中へよりあげ一ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、惣身のあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすが如し。一兵衞今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこし息をさすべしと繩をおろし、とひへ水をそゝぎ、口へ氣藥を入れ、扨もかひなし一兵衞同類をはやく申せいはずんば又あぐべし。なんぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衞いきのしたよりあらくるしやかなしや候いかなるせめにあふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいは此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人桐の木の杖をつき、母にはしさいの色を著て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云
『皇典講究所講演』
駿河町奉行彦坂九兵衛が慶長年間に発明したとされる拷問法の1つ。いろいろな文献に引用される中で、明治時代に神道や古典文学の研究・普及を目的として設立されたと思われる皇典講究所が1895年(明治28年)5月に発行した『皇典講究所講演 16』での記述は比較的古いものである。ここには「駿河問といふ拷法あり、駿河の町奉行彦坂九兵衛の創めしものにて、其法極めて残虐なりしと聞く、慶長見聞集、大島一兵衛組の條に、○に彦坂九兵衛と云人、たくみ出せる駿河問とて、四ツの手足をうしろにまいし、一ツにくくり、背に石を重荷におき、天井より繩を下げ、中へよりあげ、一ふりふれい、只車を廻すに似て、惣身の油、かうべへ下り、油のたると、水を流すが如しと見ゆ」とある。ここにある「慶長見聞集」が、三浦浄心による書籍ならば、三浦が生きていた江戸初期に出典が大元の記述なのかもしれない。
イギリス国王使節ジョン・セーリスが慶長18年(1613)頃に駿府郊外でキリシタン迫害を目撃し、報告している模様。これには「駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。」とかいてあるらしい[1]。この記述のもととなった文献は調査中。
「侠客大島逸兵衛が、この拷問にあったり、屎水を喰わされたりした。寛永年間にも、曾根甚六という者の妻が、この拷問をおこなわれたという。」[2]
参考となる文献教材
- 駿河責=「駿河の代官彦坂九郎兵衛の発明にかかるといふ。女の四肢を縛り土石を乗せて廻転せしむるもの。」とある。
参考となる緊縛教材
ギャラリー
-
『皇典講究所講演 16』(皇典講究所, 1895)の中での駿河問の記述部分。