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新宿二丁目にあった小劇場。「'''新宿モダンアート'''」「'''実験小劇場モダンアート''' | 新宿二丁目にあった小劇場。「'''新宿モダンアート'''」「'''実験小劇場モダンアート'''」とも呼ばれる。初代社長は益岡清志。当時盛り上がっていたアングラ演劇や前衛舞踏の舞台として作られた。「前衛演劇、八ミリ映画、ヌードに軽演劇などを組合わせた、地下劇場」[[前衛集団]]の「[[黒の会]]」や「[[薔薇卍結社]]」などの公演が記録されている。70年代に入りアングラブームが去った後には、主にストリップの公演に使われていた。 | ||
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2020年4月6日 (月) 13:34時点における版
もだんあーと。1967年(昭和42年)新宿二丁目にオープンした小劇場。実験劇、ヌードショー、8mm上映を同時公演。80年に川上譲治が前衛SMショー。87年まで。
概要
新宿二丁目にあった小劇場。「新宿モダンアート」「実験小劇場モダンアート」とも呼ばれる。初代社長は益岡清志。当時盛り上がっていたアングラ演劇や前衛舞踏の舞台として作られた。「前衛演劇、八ミリ映画、ヌードに軽演劇などを組合わせた、地下劇場」前衛集団の「黒の会」や「薔薇卍結社」などの公演が記録されている。70年代に入りアングラブームが去った後には、主にストリップの公演に使われていた。
別名
新宿モダンアート 新宿モダンアート劇場 実験小劇場モダンアート 新宿ニューモダンアート
歴史
1967年(昭和42年)、新宿モダンアートが益田凡児(益岡清志)によりアングラ小劇場として設立[1]。
1968年(昭和43年)2月、天井桟敷の『新宿のユリシーズ』を公演。
1968年(昭和43年)6月、S・Mグラフ創刊号に新宿モダンアートの「ゴキブリ王」の写真。
1969年(昭和44年)1月、S・Mグラフ第2巻第1号の『ああ、ハプニング』で新宿モダンアートの特集。
1970年(昭和45年)8月、東映から公開された中島貞夫監督作品『にっぽん’69 セックス猟奇地帯』で取り上げられている。「ハプニング大会」の模様と思われる。同時公演で「関西ヌード」「8mm映画」「アブノーマルヌード」の案内。
1976年(昭和51年)4月、川上譲治が照明係として入社[2]。
1979年(昭和54年)1月、警察の手入れの強化を受け、萩本オーナーによる「脱マナ板ショー」宣言[2]。
1979年(昭和54年)4月、既に川口DX劇場を退社していた川上譲治が、『DXブーレン』の製作として流山児祥シナリオによる「オカマ&ストリッパー 濡れた花弁に弾丸を![注 1]」を上演。この時、既にオーナーは萩本から他の人物に変わっていた模様[2]。
1980年(昭和55年)12月、川上譲治がラー企画のメンバーを使った前衛SMショー『胡弓&カラス』を上演して大人気となる[2]。
1985年頃、新宿ニューモダンアートと名称を変更していた模様。
1986年(昭和61年)1月1日−10日、新宿モダンアート劇場で長田ゼミナール公演。
1986年(昭和61年)12月、新宿モダンアートでの長田英吉と早乙女宏美のショーがフォーカスにとりあげられる[3]。
1987年(昭和62年)8月31日、廃館。
所在地
東京都新宿区新宿2-12-7
トピックス
- 寺山修司の天井桟敷も公演。
- 向井一也が奇譚クラブ1968年(昭和43年)11月号で募集していた、劇団「新しい波」の連絡先が、モダンアート、あるいは名古屋の今池アングラ劇場内の向井常となっていた。
- 川上譲治が入社した時のモダンアートのオーナーは「萩本」。萩本が支配権を有していた系列店は、モダンアート、大宮DX劇場、川口DX劇場、宇都宮DX劇場、郡山の劇場[2]。
- 1980年(昭和55年)頃の社長は野部、支配人は柴田。オーナーは既に萩本ではない[2]。
- 1986年(昭和61年)頃の雑誌広告には「SM専門館 モダンアート劇場」とある。
引用文献
注釈
- ↑ 出演は女優の林テレサとゲイバー「シンドバット」の春彦。