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2010年4月7日 (水) 14:48時点における版
すま としゆき、1920年(大正9年)? - 1992年(平成4年)
活動内容
絵師。緊縛師。文筆家。編集者。『奇譚クラブ』『裏窓』『SMコレクター』『アブハンター』『SM奇譚』などの初期SM雑誌の編集に関わり、戦後SM文化の形成に大きな役割を果たした。絵師としても高いレベルの作品を残し、緊縛師、文筆家としても活躍した。
別名
Toshiyuki Suma, Reiko Kita, Kou Minomura, 喜多玲子、美濃村晃、竹中英二郎、高月大三、須賀敏(小説)、古賀純一(小説)、石塚章二(小説)、村松武史(劇画)
略歴
須磨の自伝には創作部分がかなり含まれていると思われるので、以下の略歴も要注意情報を含むことに留意されたい。
1920年(大正9年) 、京都の印刷業の家に生まれる[注 1]。
1932年頃、「祖父の蔵書の中にあった『変態風俗資料』という本に責め絵画家として紹介されている伊藤晴雨を知る[1]。
1930年代、京都美術工芸学校を結核で中退[2]。
1930年代、小林楳仙(こばやしばいせん)[注 2]という日本画家の内弟子になる[2][3]。
1939年5月、舞鶴の海兵団に志願[3]。
1944年3月18日、「北陸丸」乗船中にバシー海峡で沈没[3]。
1945年頃、復員後、日本各地を放浪していろいろな職業につく[2]。
1945年頃、京都の夕刊新聞社「京都中央新聞社」の編集記者[2]。
1947年(昭和22年)夏、京都中央新聞社の杉山清詩[注 3]につれられ曙書房に行ったのが縁で奇譚クラブに挿絵を描き出す[2][注 4]。まだ不定期刊行のカストリ雑誌であった奇譚クラブ以外にも、「情艶新集」などににも挿絵を描いていた[注 5][2]。
エピソード
- ミノムラ=ジャワ語でちょっと一服
- 江戸川乱歩から少年の絵を依頼されていたらしい[4]
- 寺山修司は須磨と交流があり、戦争の逸話[注 6]などをテープに録音していた[4]。
- ボクシング好きの須磨利之は、「カッパの清作がやっている店へご案内しますよ」と濡木をたこ八郎がやっていた「たこ部屋」に連れて行った[5]
代表作
自伝
- 『春縄(シリーズ)[注 7]』SMコレクター1975年(昭和50年)5月号-1977年(昭和52年)5月号
- 『縄の浮浪者』SMコレクター1978年(昭和53年)10月号-1979年(昭和54年)7月号
- 『我が縄の履歴書』SMコレクター1981年(昭和56年)6月号-12月号
- 『美濃村晃淫行録』
- 『太平洋戦争SM譚』
- 『縛られ女郎列伝』(再録[注 8])S&Mスナイパー1993年(平成5年)5月号-1995年(平成7年)1月号
- 『縄の交友録』緊美研通信1990年(平成2年)第4号, 第5号, 1991年(平成3年)第6号
特集
- 『追悼・美濃村晃の世界』S&Mスナイパー1992年(平成4年)6月号
参考資料
注釈
- ↑ 実父亡き後、叔父の須磨勘兵衛が家長。古書を探すと確かに「須磨勘兵衛発行」の本が見つかる。京都市左京区下鴨泉川町6となっている。
- ↑ 右京区の嵯峨荘馬場町天龍寺という所にいた。
- ↑ 杉山清詩は奇譚クラブ別冊に須磨氏を連れてデパートに洋画美術研究会に行ったことを書いている。当時は、美術を隠れ蓑にヌード鑑賞していたらしい。(秋田昌美「異説:フェティシズムの歴史」)
- ↑ 奇譚クラブの創刊は1946年(昭和21年)説と、1947年(昭和22年)10月説があり、後者が正しいとすると、この夏での訪問は話が合わない。
- ↑ 「情艶新集」の出版社には後の都築峰子となる八木静男が寄宿していた。
- ↑ 「戦争で捕虜となった時に、敵国の従軍看護婦一師団がやってきて、捕虜の日本兵に『射精競馬』をさせ、最後はその<ウタマロ>を強チンされた」。ただしこの手の須磨の話は要注意。
- ↑ 「春縄あぶぷれい」「春縄お好み場面」など、毎回異なるタイトル。
- ↑ オリジナルは白夜書房の『スパーク』
つながり
伊藤晴雨 吉田稔 濡木痴夢男 団鬼六 櫻木徹郎 江戸川乱歩 寺山修司