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1989年(平成元年)NTTが[[ダイヤルQ2]]を開始すると共に再び[[テレクラ|テレホンセックス]]がブームとなり、『'''湯川いづみ'''』グループも再び活発化。最盛期は40人の女性が対応。1992年(平成3年)の売上げは2億円に達した。その後は後発(1985年に第一号)の[[テレクラ]]に食われてしまう。 | 1989年(平成元年)NTTが[[ダイヤルQ2]]を開始すると共に再び[[テレクラ|テレホンセックス]]がブームとなり、『'''湯川いづみ'''』グループも再び活発化。最盛期は40人の女性が対応。1992年(平成3年)の売上げは2億円に達した。その後は後発(1985年に第一号)の[[テレクラ]]に食われてしまう。 |
2015年1月3日 (土) 20:48時点における版
やまぎし こうじ、1931年(昭和6年)7月21日 -
概要
文筆家。仕掛人。
別名
佐次浩介、青山敏樹、青山機関、門田奈子、生田悠悟
略歴
1931年(昭和6年)、静岡県に生まれる。
1948年(昭和23年)、レビュー劇場『静岡歌舞伎座』[注 1]がオープン。志願して楽屋の手伝いをする。
1948年(昭和23年)頃、『静岡歌舞伎座』のための『泥んこ兄弟』の脚本を執筆[注 2]。処女作。
1949年(昭和24年)、上京して日大の芸術学部に入学。アルバイトで山の手新聞社の記者。片手間に闇市の屋台を手伝う。
1953年(昭和27年)、放送作家西川清之氏に師事し、ラジオ東京(現TBS)に脚本を書く。
1953年(昭和27年)、会員制変態クラブ『芸苑社』を設立。毎夕新聞に「MSクラブ 芸苑社」の広告を出す(エピソード参照)。
1954年(昭和28年)、九州に移り住む。たまたま駅前書店で手にした『奇譚クラブ』に心引かれ、佐次浩介の名で投稿した「女性腋窩譚」が採択される。九州から『実話雑誌』にも投稿。
1955年(昭和29年)頃、再び上京。実話雑誌の出版社である三世社(その後、三世新社となり、現在は東京三世社)を訪れ、定期的に記事の執筆。当時の編集長は、宮坂信であった。
1957年(昭和32年) 放送作家としての仕事が増える。ラジオ東京の『ジェットストリーム』の台本。文化放送の『人形の森』、にっぽん放送『轟先生』、東京12チャンネルで『水道完備ガス見込』など。
1961年(昭和36年)頃、季節風書店の「100万人のよる」や新樹書房から遠山孝が新しく発刊する雑誌に執筆。
1960年代、浅草の大衆演劇常盤座のために書いた『嫁ぐ日の姉』がヒット。立川談志一座の『ご存知高田馬場・赤鞘三人安兵衛』の台本も。
1962年(昭和37年)、生田悠悟の名前で第8回江戸川乱歩賞に応募した『楕円のまじわり』が受賞を逃す[注 3]。
1967年(昭和42年)、執筆業に見切りをつけ、スターのブロマイド販売する『サイン友の会』を発足させ大当たり。
1972年(昭和47年) 四谷にクラブ『ローレンス』をオープン。オープンのゲストは戸川晶子。裏でプレジデント・クラブと称する特別会員制のセックス専用施設を建設することを計画。しかし入会者が3人だけで結局破産。
1977年(昭和52年)4月 ローレンスの秘密クラブにいた綾小路貴子が「湯川いづみ」と改名し、テレホンセックス『湯川いづみ』グループをスタート。大当たりする。1979年(昭和54年)頃をピークに一時下火になる。
1989年(平成元年)NTTがダイヤルQ2を開始すると共に再びテレホンセックスがブームとなり、『湯川いづみ』グループも再び活発化。最盛期は40人の女性が対応。1992年(平成3年)の売上げは2億円に達した。その後は後発(1985年に第一号)のテレクラに食われてしまう。
1995年(平成7年)、司書房、三和出版の雑誌に山岸康二の筆名で執筆再開[注 4]。
1998年(平成10年)、インターネットによるSM情報の発信を目的とし、「SM小説館」を開設。
エピソード
- SMという名称が生まれていない1953年(昭和28年)に、いち早く「MS」という記号を用いた。これは『芸苑社』という秘密クラブの広告を毎夕新聞の2行広告に出すときに考えついている。「『アブノーマル』や『マゾ・サド』では長すぎるし『変態』は露骨すぎて使えない。どうしたら良いか考えた揚げ句、頭文字を取ってMSとすることにした。『MS倶楽部会員モデル募集 芸苑社』こうして、わずか2行の広告が毎夕新聞に掲載されることになった。」である。「実際に載ってみると、MSでは何となく文字のすわりが悪いので、1ケ月くらい経ってからSMに変えた。」
- 「SM」という言葉が世間一般に通用するようになったのは1970年代に入ってからのことである。
- 筆名「門田奈子」は、芸苑社の所属女性の名前に由来する。
- 濡木痴夢男が青山三枝𠮷の名で「門田奈子氏の文章も非常に珍しく・・・」と奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号の読者通信に感想を投稿している。
- 近藤一が奇譚クラブ1956年(昭和31年)12月号の読者通信に感想を投稿している。
代表作
- 佐次浩介『女性腋窩譚』奇譚クラブ1954年(昭和29年)8月号, p114
- 佐次浩介『続・腋窩譚 ゆみおんな(弓女)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)9月号, p82
- 佐次浩介『コレクション』奇譚クラブ1954年(昭和29年)10月号, p62
- 佐次浩介『コレクション 私のスクラップノートから』奇譚クラブ1954年(昭和29年)11月号, p115
- 佐次浩介『赤い腋窩の女 私の腋窩遍歴』奇譚クラブ 1954年(昭和29年)12月号, p100
- 佐次浩介『号泣 私の腋窩遍歴』奇譚クラブ 1955年(昭和30年)1月号, p212
- 佐次浩介『紅魔殿』奇譚クラブ 1956年(昭和31年)5月号, p100
- 門田奈子『奈子の自己愛について』奇譚クラブ 1956年(昭和31年)6月号, p52
- 門田奈子『奈子の自己愛について(二)』奇譚クラブ 1956年(昭和31年)7月号, p30
- 門田奈子『奈子のA感覚について』奇譚クラブ 1956年(昭和31年)8月号, p73
- 門田奈子『奈子の恋愛について』奇譚クラブ 1956年(昭和31年)9月号. p90
- 青山敏樹 『大人の腹切り女性の奇妙な告白記』100万人のよる1959年(昭和34年)9月号
- 山岸康二『好淫婦人M図鑑』SM秘小説1995年(平成7年)12月号〜1996年(平成8年)7月号
- 山岸康二『Mの快楽譜』SM秘小説1996年(平成8年)8月号〜1996年(平成8年)11月号
- 山岸康二『夢奴隷淫楽日記』SM秘小説1997年(平成9年)9月号
- 山岸康二『SM今昔秘譚』BIZARRE MAGAZINE1994年(平成6年)11月号〜1998年(平成10年)5?月号
注釈
- ↑ 旧制中学の3年生。『静岡歌舞伎座』は戦争中疎開していたムーランルージュの残党が専属になって、現代劇、時代劇、それにバラエティショーの三本立て興行をおこなった。田村泰次郎「肉体の門」、松浦(鈴木?)泉三郎の「火あぶり」「生きている小平次」など。永田キング(エノケンの師匠だった)がボルネオ、セレベスあたりに伝わる原住民の祭りを題材にした「ロンゲの夜」を製作。1950年頃には踊り子・スタッフが東京に戻り、映画館になる。
- ↑ 当時ブームになっていた「鐘の鳴る丘」を意識して書いた作品。永田キングの目にとまり上演。
- ↑ 戸川昌子『大いなる幻影』、佐賀潜 『華やかな死体』が受賞。
- ↑ 「SM秘小説」「BIZARRE MAGAZINE「お尻マニア」「変態熟女クラブ」など。