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2013年5月12日 (日) 10:41時点における版
ジョン・ウィリー 1902年(明治35年)-1962年(昭和37年)
概要
米国のフェティシュ写真家、絵師、文筆家、編集者。戦後まもなく、マニア向け変態雑誌Bizarreを創刊し、その後の米国Bodage文化に大きな影響を与えた。須磨利之と奇譚クラブとの関係に類似性を見いだせるが、年代的にはJohn Willieの方が須磨利之よりも18歳年上である。奇譚クラブでBizarreでのJohn Willieの作品が紹介されていたことや、晩年のJohn Willieの緊縛が、須磨利之や辻村隆の影響を受けていた事実を考えると、日本と米国の変態文化交流はかなり古い時期から始まっていたことがわかる。Irving Klaw、Eric Stanton, Enegなどの1950年代のレトロ・ボンデージ運動の立役者に大きな影響を与えた。
別名
John Alexander Scott Coutts、ジョン・ウィリー。なお、Willieは俗語で「ペニス」を意味する[1]。
略歴
1902年(明治35年)、シンガポールに生まれ、英国で育つ。
1921年(大正10年)、英国陸軍士官学校「Sandhurst」に入学[2]。
1925年(大正14年)、ナイトクラブのホステスであったEveline Fisherと結婚[注 1]。軍に無届けで結婚したために懲戒処分を受けオーストラリアに配属[2]。
1932年(昭和7年)、『London Life』に出会う。ハイヒール販売商人と知己となる[注 2][3]。
1935年(昭和10年)、『London Life』2月号から、John Willieの名で絵をいくつか発表[注 3][3]。
1930年代中頃、モデルとして使ったM女Holly Faramと交際を始める[2]。
1937年(昭和12年)、「Achilles」のブランド名でフェティッシュシューズの通信販売を始める。1939年(昭和14年)まで続く[注 4][3]。
1940年(昭和15年)、大戦により雑誌発行計画は中止。オーストラリー軍に入隊[1]。
1942年(昭和17年)、Holly Faramと結婚[2]。
1945年頃-1947年、ニュヨークに移る[注 5]。Holly Faramはオーストラリアに残る。
1946年(昭和21年)、フェティシュマガジン『Bizarre』を発刊[注 6]。1959年まで続く。発行部数は10,000から15,000部と思われる[3]。
1946年(昭和21年)頃、 ニューヨークのフェティッシーンでCharles Guyette、 Leonard "Lenny" Burtmanなどと知り合う。
1947年(昭和22年)、 Irving Klawと知り合い、彼にネガのコレクションを売る[3]。
1948年(昭和23年)、金銭的問題で『Bizarre』は1950年(昭和25年)まで発行を中止。
1953年(昭和28年)、風俗草紙12月増刊号の口絵にJohn Willieの水彩画が使われている。
1950年代前半、奇譚クラブ編集室にWilliam Jordan Verbeck[注 7]がBizarre2号を持ち込み、その挿絵が奇譚クラブに転用される[注 8][4]。
1957年(昭和32年)、『Bizarre』を20号まで出した時点でロサンジェルスに移る[5]。John Willieの秘書に所有権が委譲[1]。友人のR.E.B.が出版との記述も[注 9]。
1959年(昭和34年)、Bizarreが消滅。
1960年(昭和35年)、『ジョン・ウイリー画集』が画報風俗奇譚第6集として発刊。画報風俗奇譚では何回か特集があった模様。
1961年(昭和36年)、脳腫瘍にかかる[2]。この頃、郵政検査官[注 10]がウイリーの商品に感心を持ち始め、事業の継続は難しいと判断して廃業[3]。
1961年(昭和36年)、画報風俗奇譚5月号増刊号(第12集)で谷貫一が『ジョン・ウィリー原作ならびに絵 グエンドリンの降伏と冒険』を紹介している。
1961年(昭和36年)、画報風俗奇譚8月号(第15集), p99で谷貫一が『グエンドリンの降伏(続)』を紹介。
1962年(昭和37年)8月、英国ガーンジー島で一文無しの状態で死去[1]。家族の元で死去[3]。
1963年(昭和38年)、風俗奇譚1月号で『グゥエンドリン物語』が出ている。
1964年(昭和39年)、あまとりあ社からJohn Willie, Eric Stanton, Enegなどを紹介した『ショッキング画集1』が発行され、そこに「謎の人物、ジョン・ウィリーについて」を藤見郁(濡木痴夢男)と森下高茂が書いている。
エピソード
- 1957年(昭和32年)-1961年(昭和36年)のいわゆるハリウッド時代のBondageは、1953年(昭和28年)-1956年(昭和31年)の奇譚クラブや裏窓に掲載された緊縛の影響を受けている[6]。
- 「スウィート・グウェンドリン(Sweet Gwendoline)」はボンデージ・コミックの元祖。
- しばしば『Leonardo Da Vinci of fetish』と呼ばれる[1]。
- 「蜂胴」「ポニーガール」が好きなテーマ。
- バンジョー奏者でもあった[1]。
- Bettie Pageの自伝的映画The Notorious Bettie Pageの中ではIrving KlawのスタジオでJohn WillieがBettie PageののBondage写真を撮影するシーンがあるが、実際にはJohn WillieはBettie PageのBondage写真には直接関係していないとされている。
代表作
雑誌
- 『Bizarre』
- Eric Kroll『The Complete Reprint of John Willie's Bizarre』(Taschen, 2005)
写真集
- 『The First John Willie Bondage Photo Book』(London Ent. Ltd., 1978)
- 『The Second John Willie Bondage Photo Book』(London Ent. Ltd., 1978)
- 『Plusieurs Possibilites』(Futuropolis, 1985)
- 『A John Willie Portfolio, n.1』(London Ent. Ltd., 1987)
劇画
- 『The Adventures of Sweet Gwendoline』(「甘味なるグウェンドリンの降伏」「グウェンドリンの悲しい屈服」などと訳される。全65篇。1974年にJ.B. Rundにより単行本出版)。
- 『ショッキング画集 1』(あまとりあ社, 1964)
- 『The Art of John Willie - Sophisticated Bondage, 1946 1961』(Glittering Images, 1990)
小説
- 『The Magic Island』
- 『From Girl to Pony』
日本での初期紹介
- 『豪華なよそほい』奇譚クラブ1954年(昭和29年)7月号, 口絵
- 『ジョン・ウイリー画集』画報風俗奇譚第6集、1960年(昭和35年)11月
- 『グエンドリンの降伏と冒険』画報風俗奇譚第12集、1961年(昭和36年)5月
- 『続・グエンドリンの降伏』画報風俗奇譚第15集、1961年(昭和36年)8月
- 藤見郁・T・C・MORISCITA『ショッキング画集1』(久保書店, 1964)(John Willie、Eric Stantonなどを紹介)
- 『アメリカ絵物語 グェンドリン物語』裏窓、1964年(昭和39年)10月
- 『絵物語 グェンドリン物語』裏窓、1964年(昭和39年)11月
- 『Sale 2, No. 32 - ジョン・ウィリー・ボンデージ 』(フィクション・インク, 1987)
- 船津歩・大類信訳『ビザール・コレクション』1998年(平成10年), 二見書房
参考資料
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”の項より。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 Absolute Astronomyより。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 Robert V. Bienvenu ”The development of sadomasochism as a cultural style in the twentieth-century United States” (Indiana University, 1998)
- ↑ 藤見郁・T. C. Moriscita『謎の人物、ジョン・ウィリーについて』(ショッキング画集1, 1964)より。
- ↑ SM-201より
- ↑ Master K "The beuaty of Kinbaku"(King Cat Ink, 2008)
注釈
- ↑ 3,4年後に離婚している。
- ↑ この縁で、渡米後Charles Guyetteと知り合う。
- ↑ この頃から自分で雑誌を発行することを考え出す
- ↑ 当初、実際に販売するつもりはなく、極めて高い定価をつけた。カタログ希望者のリストを、将来の雑誌製作に備えて集めるつもりだったが、実際に注文が来てしまったので、履き物の製作も始めた。
- ↑ Bizarreを20巻発行した頃にハリウッドに移る。
- ↑ 第1号のみはカナダから発行。5000部を2週間で売る。2号からはニューヨークで製作(Bienvenu 1998)。
- ↑ オランダ生まれ、米国育ちのグイド・フルベッキの孫に当たる。1859年から死去まで日本で教師。息子のグスタヴ(Gustave Verbeek、1867年 - 1937年)はアメリカに渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家。
- ↑ 奇譚クラブ1954年1月号に「最新欧米女」で杉原虹児構成の絵がある。2, 3, 4月号にも子馬人間が。
- ↑ "The Adventures of Sweet Gwendoline"(1974)のRundの序
- ↑ 当時の米国では郵政法によりポルノ商品が規制されていた。
つながり
Irving Klaw Fakir Musafar Eric Stanton