「小妻要」の版間の差分

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==概要==
==概要==
絵師。文筆家。10代の頃から叔父である日本画家、坂井草子に絵の手ほどきをうける。大学卒業後、デザイン会社に就職し、1965年(昭和40年)から[[奇譚クラブ]]に責め絵の投稿を始めている。1970年代のSM雑誌ブームで一躍、責め絵師として注目を集め、[[SMセレクト]]、[[SMファン]]、[[SMキング]]、[[別冊SMファン]]、[[SM秘小説]]、[[SMクラブ]]、[[SM奇譚]]などの主たるSM雑誌に多くの作品を発表した。刺青美人画を得意とし、国内外に多くの支持者をもつ。
絵師。10代の頃から叔父である日本画家、坂井草子に絵の手ほどきをうける。大学卒業後、デザイン会社に就職し、1965年(昭和40年)から[[奇譚クラブ]]に責め絵の投稿を始めている。1970年代のSM雑誌ブームで一躍、責め絵師として注目を集め、[[SMセレクト]]、[[SMファン]]、[[SMキング]]、[[別冊SMファン]]、[[SM秘小説]]、[[SMクラブ]]、[[SM奇譚]]などの主たるSM雑誌に多くの作品を発表した。刺青美人画を得意とし、国内外に多くの支持者をもつ。


==別名==
==別名==

2011年9月27日 (火) 15:13時点における版

おずま かなめ、1939年(昭和14年) 1月19日- 2011年(平成23年)9月27日

概要

絵師。10代の頃から叔父である日本画家、坂井草子に絵の手ほどきをうける。大学卒業後、デザイン会社に就職し、1965年(昭和40年)から奇譚クラブに責め絵の投稿を始めている。1970年代のSM雑誌ブームで一躍、責め絵師として注目を集め、SMセレクトSMファンSMキング別冊SMファンSM秘小説SMクラブSM奇譚などの主たるSM雑誌に多くの作品を発表した。刺青美人画を得意とし、国内外に多くの支持者をもつ。

別名

Kaname Ozuma小妻容子、坂井勝利(本名)

略歴

1939年(昭和14年)、新潟県柏崎生まれ。

1950年(昭和25年)、叔父の日本画家・坂井草子(坂井辰次)に師事。

1956年(昭和31年)、上京、中央美術大学院入学

1958年(昭和33年)、肺結核療養のため新潟県柏崎市に戻る。

1959年(昭和34年)、柏崎市の小田印刷デザイン部に入社、画判、版下担当。

1962年(昭和37年)、再度上京。戸井版画工房入社。

1965年(昭和40年)、栗津画廊にて画業育成の指導を受ける。

1965年(昭和40年)、奇譚クラブ9月号に小妻容子『黒いコートの記憶から』が懸賞入選作品として掲載。

1968年(昭和43年)、栗津画廊を辞し、新聞、雑誌などの挿画、表紙画、口絵を描く。

1972年(昭和47年)、小妻要画集『女人幻想』(萃擁社)刊行。

1986年(昭和61年)、中央区銀座ロイヤルサロンギンザに於いて個展開催。

1987年(昭和62年)、小妻要、沢登みよじ、堂昌一西村晴海、レオ澤鬼で「艶5人展」発足[注 1]

1997年(平成9年)、報知新聞、文芸家クラブ大賞、挿画賞受賞。

2009年(平成21年)、ヴァニラ画廊に於いて個展。

2010年(平成22年)1月、初代彫蓮とボディーペイントショーコラボ制作。

2010年(平成22年)8月26日ー9月18日、ロサンジェルス「Known Gallery」にて"OZUMA KANAME & HORIYOSHI III - IREZUMI BIJIN"が開催。

2011年(平成23年)9月27日、永眠。

エピソード

  • 奇譚クラブへ投稿した初期の絵からも分かるように、太った女性に対する嗜好があったようで、独自のスタイルを確立した後も、しあしば豊満な女性の責め絵を描いている、

作品

奇譚クラブに読者投稿した初期の作品

画集

引用文献

注釈

  1. ロイヤルサロンギンザにてその後毎年開催。

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