「東京企画」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
2行目: | 2行目: | ||
==概要== | ==概要== | ||
1960年代に東京都渋谷区道玄坂二丁目あたりに存在していた[[ピンク映画]]プロダクション。社長は[[三田浩]]でその夫人'''三島佳子'''もプロデューサーとして参加していた。[[ | 1960年代に東京都渋谷区道玄坂二丁目あたりに存在していた[[ピンク映画]]プロダクション。社長は[[三田浩]]でその夫人'''三島佳子'''もプロデューサーとして参加していた。[[若松孝二]]や増田健太郎が監督して在籍した。 | ||
==別名== | ==別名== | ||
8行目: | 8行目: | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
1963年(昭和38年)、武重邦夫は熊井啓から今村昌平を通じて[[東京企画]]を紹介され、増田健太郎の『'''地下室のうめき'''』の助監督をつとめる。[[ | 1963年(昭和38年)、武重邦夫は熊井啓から今村昌平を通じて[[東京企画]]を紹介され、増田健太郎の『'''地下室のうめき'''』の助監督をつとめる。[[若松孝二]]が[[国映]]に引き抜かれた時にあたる<ref name="takeshige">「記憶の底の「地下室のうめき」」</ref>。 | ||
==エピソード== | ==エピソード== |
2011年8月10日 (水) 21:49時点における版
とうきょうきかく、19xx年(昭和x年)-
概要
1960年代に東京都渋谷区道玄坂二丁目あたりに存在していたピンク映画プロダクション。社長は三田浩でその夫人三島佳子もプロデューサーとして参加していた。若松孝二や増田健太郎が監督して在籍した。
別名
歴史
1963年(昭和38年)、武重邦夫は熊井啓から今村昌平を通じて東京企画を紹介され、増田健太郎の『地下室のうめき』の助監督をつとめる。若松孝二が国映に引き抜かれた時にあたる[1]。
エピソード
代表作
- 1963.09.03 甘い罠 東京企画
- 1963.12._ 女学生の記録 東京企画
1964.04.14 夜の誘惑 東京企画
- 1964.06._ 女子学生の記録
- 1964.12._ 十七才の絶叫 東京企画
- 1965.04._ 情事の罠 東京企画
- 1965.05._ 0の抵抗 東京企画
- 1965.06._ 女子学生を狙え! 東京企画
- 1965.09._ 愛欲の叫び 東京企画
- 1965.09._ 花と蛇 東京企画
- 1965.10._ 濡れた女 東京企画 黒岩松次郎
- 1965.10._ 女高生日記 東京企画 ... 企画
- 1965.11._ 狙われた肌
- 1965.12._ 女肌のにおい 東京企画
- 1966.01._ だかれて泣け 東京企画
- 1966.02._ 肉体の階段 東京企画
- 1966.07._ “非公開”の激情 東京企画
- 1966.09._ 十七才の体臭 東京企画
- 1966.10._ 非情の罠 東京企画
- 1966.11._ 女と男の0地帯 東京企画
- 1966.12._ 情事の末路 東京企画
- 1969._._ 無貞操少女 新東京企画
引用文献
- ↑ 「記憶の底の「地下室のうめき」」
注釈