「佐原キセ」の版間の差分

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*[[伊藤晴雨]]と結婚した頃、[[伊藤晴雨]]が看板を描いていた'''開盛座'''の女役者をしていたという記述<ref name="kawaguchi"></ref>と、「谷中の宮崎幾之助の紹介で、一日八十銭の日給で通っていた」日雇いのモデル、という記述<ref name="tsuri"></ref>がある。
*[[伊藤晴雨]]と結婚した頃、[[伊藤晴雨]]が看板を描いていた'''開盛座'''の女役者をしていたという記述<ref name="kawaguchi"></ref>と、「谷中の宮崎幾之助の紹介で、一日八十銭の日給で通っていた」日雇いのモデル、という記述<ref name="tsuri"></ref>がある。
*[[伊藤晴雨]]は、東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた、当時17才の[[佐原キセ]]の妹も写真のモデルにしている。後に清元櫻比呂となっている女性であ。この妹の吊り写真は世に広まり、[[井川洗崖]]の吊るし責めの絵も、この写真を模写したものだろうと[[伊藤晴雨]]書いているる<ref name="tsuri"></ref>。
*[[伊藤晴雨]]は、東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた、当時17才の[[佐原キセ]]の妹も写真のモデルにしている。後に清元櫻比呂となっている女性であ。この妹の吊り写真は世に広まり、[[井川洗崖]]の吊るし責めの絵も、この写真を模写したものだろうと[[伊藤晴雨]]書いているる<ref name="tsuri"></ref>。
*1998年(平成10年)4月、下北沢「劇」小劇場で上演された[[玉井敬友]]主宰のシアタースキャンダル公演、『'''奇伝・[[伊藤晴雨]]'''』では[[小川美那子]]が[[佐原キセ役]]。


==関連作品==
==関連作品==

2011年8月21日 (日) 08:37時点における版

伊藤晴雨による佐原キセの『臨月の夫人の逆さ吊り写真變態資料 1926年(大正15年)12月25日号より

さはら きせ, 1893-5年(明治26-8年)頃?

概要

伊藤晴雨の2番目の妻。伊藤晴雨の仕事に理解を示し、雪責め写真や逆さ吊り写真などのモデルをつとめた。特に、臨月近い状態で逆さ吊りとなった『臨月の夫人の逆さ吊り写真』撮影の成功とその流布は、変態としての伊藤晴雨の名を世に広げることとなった。元祖SM写真モデルともいえる存在である。

別名

佐原帰世子

略歴

1893-5年(明治26-8年)頃、生まれる[1]

1919年(大正8年)、伊藤晴雨と結婚[1][注 1]

1919年(大正8年)12月、伊藤晴雨が自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[1][注 2]

1920年(大正9年)秋、伊藤晴雨佐原キセをモデルに最初の吊りの試み[2]

1921年(大正10年)6月、伊藤晴雨が妊娠していた佐原キセをモデルに『臨月の夫人の逆さ吊り写真』を撮影[2]

1926年(大正15年)、變態資料12月25日号に『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載[2]

トピック

  • 伊藤晴雨と結婚した頃、伊藤晴雨が看板を描いていた開盛座の女役者をしていたという記述[1]と、「谷中の宮崎幾之助の紹介で、一日八十銭の日給で通っていた」日雇いのモデル、という記述[2]がある。
  • 伊藤晴雨は、東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた、当時17才の佐原キセの妹も写真のモデルにしている。後に清元櫻比呂となっている女性であ。この妹の吊り写真は世に広まり、井川洗崖の吊るし責めの絵も、この写真を模写したものだろうと伊藤晴雨書いているる[2]
  • 1998年(平成10年)4月、下北沢「劇」小劇場で上演された玉井敬友主宰のシアタースキャンダル公演、『奇伝・伊藤晴雨』では小川美那子佐原キセ役

関連作品

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 伊藤晴雨吊り責めさまざま風俗草紙1954年(昭和29年)1月号, p113

注釈

  1. 後に浮気をして晴雨のもとを去る。
  2. この作品の一部は後に斎藤昌三の『』で発表される。

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