「あまとりあ」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
 
「文化人の性風俗誌」5年間に臨時増刊2冊を含む56冊を刊行。
== 発行年・出版社==
== 発行年・出版社==
1951年(昭和26年)3月-1955年(昭和30年) [[あまとりあ社]]=[[久保書店]]
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1950年(昭和25年)11月、[[中田雅久]]が原稿依頼に[[高橋鐵]]を訪れたのをきっかけに、当時[[あまとりあ]]の創刊を計画していた[[高橋鐵]]と[[久保藤吉]]に誘われて[[あまとりあ社]]に入社<ref name="kaikoroku">[[中田雅久]]『'''[[あまとりあ]]回顧録'''』in 藤本義一編『'''[http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=iq05-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=B000J8XBOU あまとりあ傑作選]'''』(東京スポーツ新聞社, 1977)</ref>。


1951年(昭和26年)3月、創刊。わいせつ容疑で摘発。
1951年(昭和26年)3月、創刊。わいせつ容疑で摘発<ref group="注">歌川国麿の「春色玉揃」が性行為を連想させるとして。</ref><ref name="kaikoroku"></ref>。


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1951年(昭和26年)12月、わいせつ容疑で摘発。
1951年(昭和26年)12月、わいせつ容疑で摘発<ref group="注">[[伊藤晴雨]]の「女賊捕物帖」が問題となる。</ref><ref name="kaikoroku"></ref>。


1955年(昭和30年)8月、終刊。終刊号の編集に[[須磨利之]]が関わっている。
1955年(昭和30年)8月、終刊倍大号。終刊号の編集に[[須磨利之]]が関わっている。


==主な寄稿者==
==主な寄稿者==
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== エピソード==
== エピソード==
*表紙の三色刷は当時としては珍しい<ref name="kaikoroku"></ref>。
*[[高橋鐵]]からの依頼で[[中田雅久]]が始める。
*[[高橋鐵]]からの依頼で[[中田雅久]]が始める。
*[[高橋鐵]]の自宅が実質的な編集分室。
*[[高橋鐵]]の自宅が実質的な編集分室<ref name="kaikoroku"></ref>。
*タイトルは、ラテン語の「アルス・アマトリア」=性愛の技術が由来。
*タイトルは、ラテン語の「アルス・アマトリア」=性愛の技術が由来。



2011年3月11日 (金) 19:05時点における版

あまとりあ 1951年(昭和26年)3月創刊号

あまとりあ

概要

「文化人の性風俗誌」5年間に臨時増刊2冊を含む56冊を刊行。

発行年・出版社

1951年(昭和26年)3月-1955年(昭和30年) あまとりあ社久保書店

発行人・編集人

編集人:中田雅久

印刷人:久保長吉

主な出来事

1950年(昭和25年)11月、中田雅久が原稿依頼に高橋鐵を訪れたのをきっかけに、当時あまとりあの創刊を計画していた高橋鐵久保藤吉に誘われてあまとりあ社に入社[1]

1951年(昭和26年)3月、創刊。わいせつ容疑で摘発[注 1][1]

1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵伊藤晴雨、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[1]

1951年(昭和26年)12月、わいせつ容疑で摘発[注 2][1]

1955年(昭和30年)8月、終刊倍大号。終刊号の編集に須磨利之が関わっている。

主な寄稿者

武野藤介

エピソード

  • 表紙の三色刷は当時としては珍しい[1]
  • 高橋鐵からの依頼で中田雅久が始める。
  • 高橋鐵の自宅が実質的な編集分室[1]
  • タイトルは、ラテン語の「アルス・アマトリア」=性愛の技術が由来。

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 中田雅久あまとりあ回顧録』in 藤本義一編『あまとりあ傑作選』(東京スポーツ新聞社, 1977)

藤本義一『あまとりあ傑作選』(東京スポーツ新聞社出版局, 1977)

注釈

  1. 歌川国麿の「春色玉揃」が性行為を連想させるとして。
  2. 伊藤晴雨の「女賊捕物帖」が問題となる。

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つながり

高橋鐵