「井川洗崖」の版間の差分
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*[[村田誠一]]『'''戦前戦後の挿絵に現れた責め縛り繪'''』[[奇譚クラブ]] 1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/01/006.html 口絵]で紹介されている。 | *[[村田誠一]]『'''戦前戦後の挿絵に現れた責め縛り繪'''』[[奇譚クラブ]] 1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/01/006.html 口絵]で紹介されている。 | ||
*[[伊藤晴雨]]が1920年(大正9年)秋頃に、[[佐原キセ]]の妹<ref group="注">当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。</ref>を吊して撮影した写真を基に、[[井川洗崖]]が書いた吊るし責めの絵があるようだ<ref name="tsuri">[[伊藤晴雨]]『'''吊り責めさまざま'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/FS195401/02/102.html p113]</ref>。 | *[[伊藤晴雨]]が1920年(大正9年)秋頃に、[[佐原キセ]]の妹<ref group="注">当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。</ref>を吊して撮影した写真を基に、[[井川洗崖]]が書いた吊るし責めの絵があるようだ<ref name="tsuri">[[伊藤晴雨]]『'''吊り責めさまざま'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/FS195401/02/102.html p113]</ref>。 | ||
*「女の責場を写生に依って描かんとした」とある<ref name="semebanokonnjaku">[[伊藤晴雨]]『'''責め場の今昔'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195610/02/085.html p88]</ref>。 | |||
*「都新聞で”小松嵐”や”堀のお梅”で幾多の傑作を遺している」<ref name="semebanokonnjaku"></ref>。 | |||
==代表作== | ==代表作== | ||
*中里介山『'''氷の花'''』(都新聞, 1906) | *中里介山『'''氷の花'''』(都新聞, 1906)。挿絵:[[井川洗崖]] | ||
*中里介山『'''荒野の義人'''』(都新聞, 1906) | *中里介山『'''荒野の義人'''』(都新聞, 1906)。挿絵:[[井川洗崖]] | ||
*岡本綺堂『'''冬の金魚''' | *岡本綺堂『'''冬の金魚'''』[[講談倶楽部]] 1924年(大正13年)頃。挿絵:[[井川洗崖]] | ||
== 引用文献== | == 引用文献== | ||
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いがわ せんがい、1876年(明治9年)-1961年(昭和36年)
概要
専業挿絵家のパイオニアでもある。富岡永洗に師事する。晩年は美人画を描く。
別名
略歴
1876年(明治9年)、岐阜県に生まれる。
富岡永洗に師事する。
1906年(明治39年)、都新聞に入社。中里介山の『氷の花』や『荒野の義人』の挿絵を描く。
エピソード
- 村田誠一『戦前戦後の挿絵に現れた責め縛り繪』奇譚クラブ 1953年(昭和28年)8月号, 口絵で紹介されている。
- 伊藤晴雨が1920年(大正9年)秋頃に、佐原キセの妹[注 1]を吊して撮影した写真を基に、井川洗崖が書いた吊るし責めの絵があるようだ[1]。
- 「女の責場を写生に依って描かんとした」とある[2]。
- 「都新聞で”小松嵐”や”堀のお梅”で幾多の傑作を遺している」[2]。
代表作
引用文献
注釈
- ↑ 当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。