「小村雪岱」の版間の差分

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[[画像:file.jpg|150px|thumbnail|絵師 雑誌名 1953年(昭和28年)11月号より]]
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'''こむら せったい'''、19??年(昭和??年)-
'''こむら せったい'''、1887年(明治20年)3月22日-1940年(昭和15年)10月17日


==概要==
==概要==
[[須磨利之]]が、「影響を受けた絵師」としてしばしば名をあげている戦前の挿絵画家。
大正から昭和の戦前まで活躍した絵師。挿絵画家。時代考証に通じ、舞台美術家としても名を成す。資生堂意匠部にいたこともある。余白をいかした簡潔な構図が特徴。[[須磨利之]]が「影響を受けた絵師」としてしばしば名をあげている。
==別名==
==別名==
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]、安並泰輔(本名)


==略歴==
==略歴==
1934年(昭和9年)、読売新聞に連載された邦枝完二『'''お伝地獄'''』の挿絵を担当。
1887年(明治20年)3月22日、埼玉県川越市郭町に生まれる。
 
1900年代、東京美術学校在学中、下村観山、のち松岡映丘に師事する。
 
1909年(明治42年)、東京美術学校日本画科卒業。
 
1914年(大正3年)、泉鏡花の『日本橋』の装幀
 
1918年(大正7年)、資生堂に入社、化粧品広告担当。
 
1934年(昭和9年)、読売新聞に連載された[[邦枝完二]]『'''お伝地獄'''』の挿絵を担当。
 
1940年(昭和15年)10月17日、永眠。


2010年(昭和22年)、[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00320OFHO/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00320OFHO 芸術新潮 2010年 2月号]で特集。
2010年(昭和22年)、[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00320OFHO/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00320OFHO 芸術新潮 2010年 2月号]で特集。
==エピソード==
==エピソード==
*舞台美術家としても有名。
*弟子に[[山本武夫]]


==代表作==
==代表作==
*泉鏡花の「日本橋」の挿画
 
== 引用文献==
== 引用文献==
<references/>
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2014年7月30日 (水) 12:37時点における最新版

小村雪岱お伝地獄
小村雪岱 日曜報知 1934年(昭和9年)5月号の子母澤寛『鉄火江戸侍』の挿絵

こむら せったい、1887年(明治20年)3月22日-1940年(昭和15年)10月17日

概要

大正から昭和の戦前まで活躍した絵師。挿絵画家。時代考証に通じ、舞台美術家としても名を成す。資生堂意匠部にいたこともある。余白をいかした簡潔な構図が特徴。須磨利之が「影響を受けた絵師」としてしばしば名をあげている。

別名

english、安並泰輔(本名)

略歴

1887年(明治20年)3月22日、埼玉県川越市郭町に生まれる。

1900年代、東京美術学校在学中、下村観山、のち松岡映丘に師事する。

1909年(明治42年)、東京美術学校日本画科卒業。

1914年(大正3年)、泉鏡花の『日本橋』の装幀

1918年(大正7年)、資生堂に入社、化粧品広告担当。

1934年(昭和9年)、読売新聞に連載された邦枝完二お伝地獄』の挿絵を担当。

1940年(昭和15年)10月17日、永眠。

2010年(昭和22年)、芸術新潮 2010年 2月号で特集。

エピソード

代表作

引用文献

注釈


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