「吉田稔」の版間の差分

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*「大阪・北浜の相場師」という記述がある<ref name="dan">『【対談】[[康芳夫]](国際暗黒プロデューサー) 』[http://oniroku-dan.cocolog-nifty.com/ 団鬼六公式ブログ]</ref>。これを裏付けるように、[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/01/006.html p9]に「父のあとを継いで惰性でやっている証券取引」「父譲りの投資した事業」という記述がある。
*「大阪・北浜の相場師」という記述がある<ref name="dan">『【対談】[[康芳夫]](国際暗黒プロデューサー) 』[http://oniroku-dan.cocolog-nifty.com/ 団鬼六公式ブログ]</ref>。これを裏付けるように、[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/01/006.html p9]に「父のあとを継いで惰性でやっている証券取引」「父譲りの投資した事業」という記述がある。
* 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。
* 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。
*「たまたま梅田駅で昔の戦友[[須磨利之]]と出会い、それがきっかかけで須磨氏が[[奇譚クラブ]]に参画<ref name="ex01" name="himitsu">[[高倉一]] [http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198909636?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4198909636 『秘密の本棚Ⅰ:幻の雑誌1953~1964の記録』(1998, 徳間書店)]</ref><ref group="注">信憑性は不明。[[須磨利之]]と同じ職場だった[[杉山清詩]]が引き合わしたという説もある。</ref>
*「たまたま梅田駅で昔の戦友[[須磨利之]]と出会い、それがきっかかけで須磨氏が[[奇譚クラブ]]に参画<ref name="ex01" name="himitsu">[[高倉一]] [http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198909636?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4198909636 『秘密の本棚Ⅰ:幻の雑誌1953~1964の記録』(1998, 徳間書店)]</ref><ref group="注">信憑性は不明。[[須磨利之]]と同じ職場だった[[杉山清詩]]が引き合わしたという説もある。</ref>。外地に出征していたことは、[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/01/006.html p9]の「敵と対峙したジャングルの中で樹の間から眺めた抜けるような底抜けに青い空」から伺える。
*1975年(昭和50年)の始め、吉田から[[高倉一]]に手紙。「体を悪くして入院した。とても『[[奇譚クラブ]]』の発行を続けられない、手元にある原稿や資料は送るから、代わって刊行を続けてくれないか。」承認の返事を出したのと入れ違いに、吉田の訃報が届いた<ref name="ex01" name="himitsu"></ref>。
*1975年(昭和50年)の始め、吉田から[[高倉一]]に手紙。「体を悪くして入院した。とても『[[奇譚クラブ]]』の発行を続けられない、手元にある原稿や資料は送るから、代わって刊行を続けてくれないか。」承認の返事を出したのと入れ違いに、吉田の訃報が届いた<ref name="ex01" name="himitsu"></ref>。
*吉田の死去と共に奇譚クラブが終わったとする説もあるが、一方で、奇譚クラブ終刊後も元気にしていたという説もネット上に存在する(「昨年(2008年)飯田豊一氏に・・奇ク廃刊後の吉田稔元編集長のこととか、・・・聞きました。その結果は、吉田稔氏は奇ク廃刊後も元気で、なんと自身で車を運転して東京まで来たそうです。」[[貴重な情報発信サイト|昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真]])
*吉田の死去と共に奇譚クラブが終わったとする説もあるが、一方で、奇譚クラブ終刊後も元気にしていたという説もネット上に存在する(「昨年(2008年)飯田豊一氏に・・奇ク廃刊後の吉田稔元編集長のこととか、・・・聞きました。その結果は、吉田稔氏は奇ク廃刊後も元気で、なんと自身で車を運転して東京まで来たそうです。」[[貴重な情報発信サイト|昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真]])

2010年10月4日 (月) 08:13時点における版

よしだ みのる、19??年(昭和??年)- 1982年(昭和57年)?[注 1]は、奇譚クラブの編集長。

活動内容

緊縛師。編集人。仕掛人。

別名

Minoru Yoshida箕田京二[注 2]

略歴

1947年(昭和22年)、奇譚クラブを創刊[注 3]

1980年(昭和55年)頃から、脳溢血のために障害[1][注 1]

エピソード

  • 「大阪・北浜の相場師」という記述がある[2]。これを裏付けるように、奇譚クラブ1966年(昭和41年)1月号, p9に「父のあとを継いで惰性でやっている証券取引」「父譲りの投資した事業」という記述がある。
  • 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。
  • 「たまたま梅田駅で昔の戦友須磨利之と出会い、それがきっかかけで須磨氏が奇譚クラブに参画[3][注 4]。外地に出征していたことは、奇譚クラブ1966年(昭和41年)1月号, p9の「敵と対峙したジャングルの中で樹の間から眺めた抜けるような底抜けに青い空」から伺える。
  • 1975年(昭和50年)の始め、吉田から高倉一に手紙。「体を悪くして入院した。とても『奇譚クラブ』の発行を続けられない、手元にある原稿や資料は送るから、代わって刊行を続けてくれないか。」承認の返事を出したのと入れ違いに、吉田の訃報が届いた[3]
  • 吉田の死去と共に奇譚クラブが終わったとする説もあるが、一方で、奇譚クラブ終刊後も元気にしていたという説もネット上に存在する(「昨年(2008年)飯田豊一氏に・・奇ク廃刊後の吉田稔元編集長のこととか、・・・聞きました。その結果は、吉田稔氏は奇ク廃刊後も元気で、なんと自身で車を運転して東京まで来たそうです。」昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真)

代表作

奇譚クラブ

参考資料

注釈

  1. 1.0 1.1 木本至『雑誌で読む戦後史』によるが確認の必要あり。1975年(昭和50年)頃死去の可能性も高い。
  2. 「懐かしき奇譚クラブ」のesme氏の分析によると、「B5版時代の奇譚クラブには、明らかに須磨利之の作品と思われる「箕田京二」「箕田京太郎」名義の挿絵が見られる。一方、奥付に「編集人 箕田京二」の名が出てくるのはB5版時代後期になってから。箕田京二」は元々は須磨氏のペンネームの一つだったのではないか」とある。
  3. 創刊年のあいまいさについては奇譚クラブの項を参照。
  4. 信憑性は不明。須磨利之と同じ職場だった杉山清詩が引き合わしたという説もある。