Irving Klaw

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Irving Klaw (1910-1966 )

アービング・クロウ 1910年(明治43年)11月9日-1966年(昭和41年)9月3日


活動内容

1950年代の米国ボンデージブームの仕掛け人。実業家。写真家。映画制作者。自身もある程度、緊縛をおこなったものと思われる。

別名

アービング・クロウ

略歴

1910年(明治43年11月9日)、ユダヤ系アメリカ人としてニューヨーク・ブルックリンに生まれる。

毛皮商を始めるが失敗[1]

1938年(昭和13年)、中古本屋を開業。やがて映画のスチール写真を専門に取り扱う「Movie Star News」と店舗名を変える[1]

エロチックな写真を売り出すと共に、バーレスク・ダンサーを雇ってノー・ヌードの写真を取り出す[1]

郵送により、ヌード写真やマガジンを販売しはじめ、これが大ヒットとなるが、当局の目にとまる[1]

スポンサーを得て、ボンデージ写真の販売を開始し始める[1]

1953年(昭和28年)、友人のカメラマンにBettie Pageを紹介され、Bondage写真を撮る[1]

1950年代、映画制作を開始。この頃、年150万ドルを稼ぐ大金持ちとなる[1]

1955年(昭和30年)、上院議員Estes Kefauverのポルノ規制のやり玉にされ[注 1]、クロウは『ポルノ王(Smut King)』とマスコミに騒がれる[1]。Klawの使っていた現像所はディズニーも使っていた現像所で、ディズニーからの圧力でKlawはその現像所を使えなくなる。

1950年代中頃、ニューヨークにあったKlawのNutrix社を閉鎖。しばらくして、彼の妹(姉)とその夫、Richard Kramerがニュージャージーで同様の事業を再開[2]

写真ネガを破棄し廃業宣言。ただし、彼の妹(姉)がネガの一部を隠し持ち、後に発表[1]

1964年(昭和39年)、連邦法廷から有罪刑[1]

1966年(昭和41年)9月3日、虫垂炎から死去[1]

エピソード

  • 50年代の伝説のピンナップガール、Bettie Page(1923-2008)の育ての親。「ピンナップ・キング」と呼ばれていた。
  • "No Sex" "No Nudity"の営業戦略でBondage写真を販売[3]

代表作

映画

  • 『Varietease』(1954) 監督:Irving Klaw、出演;Bettie Page
  • 『Teaserama』(1955)

写真集

参考資料

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 Jonathan Dunder(The Free Information Society)より。
  2. FetLifeで2010年に交わされていた議論から。
  3. 北原童夢『ボンデージ進化論』(青弓社, 1992)

注釈

  1. 公聴会に呼ばれるが憲法で保障された黙秘権を行使。Kefauverは侮辱罪を適用しようとしたができず(FetLife Discussion より)

つながり

John Willie Bettie Page Eric Stanton

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