「塚本鉄三」の版間の差分

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*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 若妻をモデルとした構成'''』[[奇譚クラブ]]1962年(昭和37年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196212/045.html p48] (モデル:[[関谷富佐子]])
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 若妻をモデルとした構成'''』[[奇譚クラブ]]1962年(昭和37年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196212/045.html p48] (モデル:[[関谷富佐子]])
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 笞打ちに悶える媚態'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196301/141.html p144] (モデル:[[関谷富佐子]])
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 笞打ちに悶える媚態'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196301/141.html p144] (モデル:[[関谷富佐子]])
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 関谷夫人緊縛日記'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196302/162.html p166]
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 関谷夫人緊縛日記'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196302/162.html p166] (モデル:[[関谷富佐子]])
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 芦屋マダムか白百合夫人か'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)3月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196303/167.html p170]
*[[塚本鉄三]]『'''[[緊縛フォト撮影の実際]] 芦屋マダムか白百合夫人か'''』[[奇譚クラブ]]1963年(昭和38年)3月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196303/167.html p170] (モデル:[[関谷富佐子]])


===カメラ・ルポルタージュ===
===カメラ・ルポルタージュ===

2014年5月16日 (金) 17:09時点における版

つかもと てつぞう、(生年不明)。1950年代から奇譚クラブと共に活動した緊縛師・写真家。1953年に出版された『美しき縛しめ』(曙書房)の写真を担当している。「カメラ・ルポルタージュ」「S研レポート」などの多くの連載を執筆。

概要

写真家。緊縛師。奇譚クラブの初期の段階から1975年(昭和55年)3月号の週刊号まで作品と発表し続けた。

別名

Tetsuzo Tsukamoto

略歴

1950年(昭和25年)頃 緊縛写真を撮影開始。

1953年(昭和28年)12月、『美しき縛しめ』(曙書房)での撮影担当。緊縛は須磨利之(第一集)、辻村隆(第二集)

1963年(昭和38年)10月、奇譚クラブ臨時増刊号として『文献』を出版。

1970年(昭和45年)、奇譚クラブ10月号から「カメラ・ルポ」シリーズ。

1975年(昭和55年)、『カメラとペンのSMルポルタージュ」

エピソード

  • 大阪南のDストリップ劇場でストリッパーたちの宣伝スチール写真を撮っていた。新聞社の記者だったという記述も[1]
  • 浦戸宏が「塚本は縞の縄をよく使っていたが、これは鞄の芯の縄であった」と説明[2]
  • お気に入りのモデルは関谷富佐子[3]
  • 四馬孝と仲が良く、同じモデルを塚本が写真撮影、四馬がデッサンしていた[3]

代表作

  • 1970年12月の別冊奇譚クラブ「女体緊縛の醍醐味を語る」

緊縛フオトの実際

カメラ・ルポルタージュ

[カメラ]と[ペン]のSMルポルタージュ

S研レポート

引用文献

  1. 北原童夢早乙女宏美『「奇譚クラブ」の人々』(河出書房新社, 2003)
  2. SUN&MOON1978年(昭和53年)8,9月号
  3. 3.0 3.1 奇譚クラブ1970年(昭和45年)7月号, p233

注釈


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