吉田稔
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よしだ みのる、19??年(昭和??年)- 1982年(昭和57年)[注 1]
概要
編集人。仕掛人。奇譚クラブの編集長。
別名
略歴
1968年(昭和43年)8 or 9月 、編集人が箕田京二から杉原虹児に交代。
1975年(昭和50年)3月号以降は奇譚クラブは発刊されず。
1980年(昭和55年)頃から、脳溢血のために障害[1][注 1]。
エピソード
- 「大阪・北浜の相場師」という記述がある[2]。これを裏付けるように、奇譚クラブ1966年(昭和41年)1月号, p9に「父のあとを継いで惰性でやっている証券取引」「父譲りの投資した事業」という記述がある。
- 吉田稔と直接交遊のあった賀山茂氏は、吉田稔氏はSMのマニアでは無く、興味は株の売買であったと証言している[3]。
- 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。
- 新聞記者だったとする記述もある[4]。
- 「たまたま梅田駅で昔の戦友須磨利之と出会い、それがきっかかけで須磨氏が奇譚クラブに参画[5][注 4]。外地に出征していたことは、奇譚クラブ1966年(昭和41年)1月号, p9の「敵と対峙したジャングルの中で樹の間から眺めた抜けるような底抜けに青い空」から伺える。
- 報道兵として南方に赴いたとき、衛生兵だった須磨利之と知り合ったという記述がある[6]。
- 1975年(昭和50年)の始め、吉田から高倉一に手紙。「体を悪くして入院した。とても『奇譚クラブ』の発行を続けられない、手元にある原稿や資料は送るから、代わって刊行を続けてくれないか。」承認の返事を出したのと入れ違いに、吉田の訃報が届いた[5]。
- 奇譚クラブ終刊後も元気にしていたという証言が複数ある[3][注 5]。
- 「箕田京二(おそらく吉田稔)氏が塚本鉄三というペンネームで(奇譚クラブに)カメラハント記事を書く時」という記述がロマン派生『毛皮と女と繩』[7]にある。
代表作
参考資料
注釈
- ↑ 1.0 1.1 木本至『雑誌で読む戦後史』による。1975年(昭和50年)頃死去とする説もあるが、複数の証言はこの可能性を否定している。
- ↑ 「懐かしき奇譚クラブ」のesme氏の分析によると、「B5版時代の奇譚クラブには、明らかに須磨利之の作品と思われる「箕田京二」「箕田京太郎」名義の挿絵が見られる。一方、奥付に「編集人 箕田京二」の名が出てくるのはB5版時代後期になってから。箕田京二」は元々は須磨氏のペンネームの一つだったのではないか」とある。
- ↑ 創刊年のあいまいさについては奇譚クラブの項を参照。
- ↑ 信憑性は不明。須磨利之と同じ職場だった杉山清詩が引き合わしたという説もある。
- ↑ 「昨年(2008年)飯田豊一氏に・・奇ク廃刊後の吉田稔元編集長のこととか、・・・聞きました。その結果は、吉田稔氏は奇ク廃刊後も元気で、なんと自身で車を運転して東京まで来たそうです。」昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真)