団鬼六
だん おにろく、1931年(昭和6年)4月16日 -
活動内容
文筆家。仕掛人。
別名
Oniroku Dan、黒岩幸彦(本名)、花巻京太郎、淡路周五、黒岩松次郎。
略歴
1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる[1]。
1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学。
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。
1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「奇譚クラブ」に傾倒する[2]。
1955年(昭和30年)、関西学院大学卒業と同時に上京、映画雑誌『スターストーリー』に入社。夏には退社し日劇ミュージックホールの照明係等、職を転々[2]。
1958年(昭和33年)、奇譚クラブの懸賞小説に応募。「お町の最後」で7月号に掲載。
1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブに。神奈川県三浦半島の三崎に移る[2]。
1963年(昭和38年)、『花と蛇』を団鬼六の名で再開。板倉三枝子と結婚[2]。
1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。臨時増刊号が出る。11月号から第2部。
1965年(昭和40年)、テレビ洋画制作会社に入社するため再度上京[2]。山邊信夫と共に『花と蛇』を制作[注 1]。
1966年(昭和41年)、テレビ洋画制作会が倒産し、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到[2]。
1966年(昭和41年)頃、ピンク映画会社の社長の紹介で谷ナオミと出会う[2]。賀山茂に谷ナオミを紹介する[3]。
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にアパートを借り、鬼プロを設立。たこ八郎が住み込み。
1969年(昭和44年)5月、鬼プロ制作『女極道色欲一代』が公開[注 2]。
1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。
1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。真鍋から家族を呼ぶ。
1971年(昭和46年)、『続・花と蛇』が完結。
1972年(昭和47年)、SMキング創刊。
1973年(昭和48年)、鬼プロの社員数が8人になる[3]。
1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開[注 3]。SMキング廃刊し鬼プロも解散[3]。
1974年(昭和49年)、アブハンターに『花と蛇・完結編』連載開始。1975年までの12回。
1976年(昭和51年)、日劇ミュージックホールに出演した谷ナオミのショーを演出[3]。
1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居[3]。大岡山に仕事場を借りる。
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町に転居。
1982年(昭和57年)、鬼プロ再結成[3]。
1983年(昭和58年)、最初の妻と離婚。鬼プロ再解散[3]。
1984年(昭和59年)、宮本安紀子と再婚。
1986年(昭和61年)、桜木町の旅館を買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン
エピソード
- 団が変名でピンク映画の監督をしていたという話がある。どの名前がそれに相当するのか不明である。松原次郎(松原二郎)が団脚本のピンク映画の多くを監督しており、これが団の変名でないかという説も流布している。しかしながら、作品数が多い(27本以上)ことと、1965年という団が映画に手を出し始めた最初の年から単独で監督をしていることなどから、団ではない可能性も高い。
代表作
『花と蛇』
自伝
引用文献
注釈
つながり
吉田稔 須磨利之 辻村隆 賀山茂 山邊信夫 谷ナオミ 杉浦則夫 たこ八郎 有末剛