渋谷テアトルSS
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しぶやてあとるえすえす
概要
別名
所在地
東京都渋谷区道玄坂2丁目
歴史
1951年(昭和26年)12月、定員座席数281の映画館として開館。
エピソード
- 「百軒店の中心には『テアトル渋谷』、『テアトル・ハイツ』、『テアトルSS』という三軒の映画館に囲まれた小さな広場がありました」[1]。
- 「1956年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、テアトルSSといった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。」[2]
- 1963年頃、「ハイツの他、テアトルSSというストリップ劇場もあり、ここはストリップ劇場の中では地位の高い名門だったらしい。」[3]
- 1964年頃、「渋谷のテアトルSSというストリップ劇場で踊っていた彼女(五月美沙)をミュージックホールに引き抜いてきたのは橋本荘輔プロデューサーだった。」「引き抜きに遭ったテアトルSS側は反発し、一時はもしかすると血の雨も降るかといった不穏な事態だった」「引き抜きは橋本プロデューサーが独断で行っており責任者の丸尾長顕は外国にいて知らなかった。帰国した丸尾は事態収拾に走った。その結果、金銭トレードのうえ、はじめの二か月はミュージックホールが借り受け、そのあと専属にするというかたちで話がついた。」[4]。
- 「ぼくが大学生の頃(昭和40年代も初めのころ)、『テアトルSS』というストリップ劇場があって、渋谷区本町に住んでいたぼくはバスに乗ってよく通った。その後、SSも消滅し、ぼくも東京を離れ、百軒店との縁は失せた。数年して帰京すると、時たま訪れるこの街は、周囲のラブホテル街に圧迫されて活力を失って、魅力に乏しい街になっていた。」[5]。