喜多玲子
喜多玲子は、須磨利之が特に絵を描く時に好んで用いた変名。経歴などについては須磨利之のページに詳しい。
奇譚クラブ時代の作品
日本画家、小林楳仙の弟子として修行を積んだ須磨利之は、戦後、新聞社に勤めながら、1949年(昭和24年)から奇譚クラブの表紙・挿絵などを手がけるようになる。まだカストリ雑誌の1つでしか過ぎなかった1950年(昭和25年)発行の奇譚クラブには、既に、「喜多玲子」「須磨としゆき」などの変名での須磨利之の作品を認めることができる。
B5版時代の奇譚クラブ
奇譚クラブは1952年(昭和27年)5月・6月合併号からB5版からA5版に変更し、いわゆるSM路線を本格化していくが、その1年前の1951年(昭和26年)5月号の奇譚クラブでは、既に須磨利之が全面的に編集に関わっていることが分かる。まだ、カストリ雑誌の時代であるために、本格的な縛りの絵を見ることは、できないが、ところどころに縛りが使われており、須磨利之の嗜好を垣間見ることができる。以下に例示するように、1951年(昭和26年)5月号の奇譚クラブには、喜多玲子、美濃村晃、竹中英二郎、須磨としゆき、箕田京二、今幾久造といった、その後もよく使われる変名の絵の他にも、明らかに須磨利之の筆と思われる絵が、いろいろな変名(「*」印で区別)で描かれている。多様な読者の嗜好に合わせて、巧みにテイストを変えながらレベルの高い絵を描く、須磨利之の類い希な才能が既にこの時点で開花しているのが分かる。
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喜多玲子 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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美濃村晃 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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須磨としゆき 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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今幾久造 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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竹中英二郎 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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志乃田よしろう 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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峯玄太* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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松岡敏一* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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曾根三太郎* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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森あきら* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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明石三平* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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秋田冷光* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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沖研二* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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天野健* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
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加住としお* 奇譚クラブ 1951年(昭和26年)5月号より
A5版時代の奇譚クラブ
1952年(昭和27年)5月・6月合併号以降、1953年(昭和28年)6月号までの1年間、須磨利之はSM雑誌となった奇譚クラブの編集長として手腕をふるったものと思われる。相変わらず多様な手法で挿絵を描いてるが、特に竹中英太郎を真似た、竹中英二郎、えいじろ、竹中英三郎の変名での挿絵が多く、またレベルも高い。挿絵と同時に、「縛られたをんな」等の緊縛美を追究した作品も散発的に発表している。
風俗草紙時代の作品
1953年(昭和28年)6月号を最後に須磨利之は奇譚クラブを去る。翌月、東京の日本特集出版社から創刊された風俗草紙は、喜多玲子の作品を絵の中核にした構成で作られており、創刊にあわせて須磨利之を招いたものと思われる。既に喜多玲子としての地位が確立していたためか、約1年にわたる風俗草紙時代の作品は、ほとんどが喜多玲子の名前で描かれている。
裏窓時代の作品
1954年(昭和29年)の春には風俗草紙は廃刊に追い込まれる。風俗草紙の出版社である日本特集出版社のオーナー、夜久勉は久保書店のオーナー久保藤吉と小出版社仲間であったようだ。それが関係してか、久保藤吉は、1956年(昭和31年)、須磨利之を編集人とした『裏窓』[注 6]を発行することになる。奇譚クラブの編集長時とは異なり、ここでは自らが多数の名前を使って多様な絵を描く必要ななかったようだ。実力のある絵師を使いながら、自らもしばしばレベルの高い作品を書いたり、濡木痴夢男の小説に挿絵を書いたりしている。奇譚クラブ時代の美濃村晃の名前が復活している。1962年(昭和37年)1月号より編集長は濡木痴夢男に交代しているが、引き続き裏窓に絵を提供している。久保書店時代は、同店発行のいくつかの書籍の表紙も製作している。