「新東宝」の版間の差分
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「新東宝」は、まず東宝株式会社の組合を脱退した俳優、監督が中心に1947年に設立した「新東宝映画製作所」として誕生している(後に新東宝株式会社)。嵐寛寿郎、丹波哲郎などを抱える、お堅い映画会社として生まれている。後に話の出てくる石井輝男監督も新東宝出身であることに注目したい。 | |||
経営は順調とはいかなかったらしく、1955年に後の大蔵映画(上記のわが国最初のピンク映画『肉体の市場』に深く関連)の創立者である大蔵貢が事実上の買収で社長となる。大蔵は「安く、早く、面白く」で改革を試み、多くの新人を生み出したが、やがてそのワンマン体制から離脱者を生み出し、とうとう60年に大蔵は新東宝から追放され、その後、61年に新東宝株式会社は倒産してしまっている。 | |||
昭和後半生まれが「ピンク映画の新東宝」として認識している「新東宝」は、正確にはこの「新東宝株式会社」ではない。61年に倒産したあと、旧会社の有志が作った「新東宝興行株式会社」(後に、「新東宝映画株式会社」)がそれである。 | |||
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2010年8月23日 (月) 15:24時点における版
しんとうほう、
活動内容
別名
略歴
「新東宝」は、まず東宝株式会社の組合を脱退した俳優、監督が中心に1947年に設立した「新東宝映画製作所」として誕生している(後に新東宝株式会社)。嵐寛寿郎、丹波哲郎などを抱える、お堅い映画会社として生まれている。後に話の出てくる石井輝男監督も新東宝出身であることに注目したい。
経営は順調とはいかなかったらしく、1955年に後の大蔵映画(上記のわが国最初のピンク映画『肉体の市場』に深く関連)の創立者である大蔵貢が事実上の買収で社長となる。大蔵は「安く、早く、面白く」で改革を試み、多くの新人を生み出したが、やがてそのワンマン体制から離脱者を生み出し、とうとう60年に大蔵は新東宝から追放され、その後、61年に新東宝株式会社は倒産してしまっている。
昭和後半生まれが「ピンク映画の新東宝」として認識している「新東宝」は、正確にはこの「新東宝株式会社」ではない。61年に倒産したあと、旧会社の有志が作った「新東宝興行株式会社」(後に、「新東宝映画株式会社」)がそれである。
エピソード
代表作
引用文献
注釈