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画像:Surugadoi02.png|『'''駿河責'''』[[伊藤晴雨]]『'''[[責の四十八手]]'''』([[粹古堂書店|粹古堂]], 1951.1)より | |||
画像:Surugadoi01.jpg|『'''駿河問の図'''』[[森川哲郎]]『'''日本[[拷問刑罰史|拷問]]残酷史'''』[[SMマガジン]] 1970年(昭和45年)9月号より | 画像:Surugadoi01.jpg|『'''駿河問の図'''』[[森川哲郎]]『'''日本[[拷問刑罰史|拷問]]残酷史'''』[[SMマガジン]] 1970年(昭和45年)9月号より | ||
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2024年8月30日 (金) 11:59時点における版
するがどい
概要
江戸時代に行われていたとされる公式ではない拷問の一種。および、それに由来する現代の緊縛法。手足を背中でひとつに結び吊り下げ、さらに背中に重しを乗せる場合おある。
別名
英語表記
Surugadoi
解説
駿河町奉行彦坂九兵衛が慶長年間に発明したとされる拷問法の1つ。いろいろな文献に引用される[注 1]、が大元となった文献がが何なのかは不明。明治時代に神道や古典文学の研究・普及を目的として設立されたと思われる皇典講究所が1895年(明治28年)5月に発行した『皇典講究所講演 16』での記述は比較的古いものである。「駿河問といふ拷法あり、駿河の町奉行彦坂九兵衛の創めしものにて、其法極めて残虐なりしと聞く、慶長見聞集、大島一兵衛組の條に、○に彦坂九兵衛と云人、たくみ出せる駿河問とて、四ツの手足をうしろにまいし、一ツにくくり、背に石を重荷におき、天井より繩を下げ、中へよりあげ、一ふりふれい、只車を廻すに似て、惣身の油、かうべへ下り、油のたると、水を流すが如しと見ゆ」とある。ここにある 「慶長見聞集」が、三浦浄心による書籍ならば、三浦が生きていた江戸初期に出典をさかのぼることができる。
イギリス国王使節ジョン・セーリスが慶長18年(1613)頃に駿府郊外でキリシタン迫害を目撃し、報告している模様。これには「駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。」とかいてあるらしい[1]
「侠客大島逸兵衛が、この拷問にあったり、屎水を喰わされたりした。寛永年間にも、曾根甚六という者の妻が、この拷問をおこなわれたという。」[2]
参考となる文献教材
- 駿河責=「駿河の代官彦坂九郎兵衛の発明にかかるといふ。女の四肢を縛り土石を乗せて廻転せしむるもの。」とある。
参考となる緊縛教材
- 長池士『SMにおける縛り方の極意2』(インターラボ, 2002)