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ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月 - 1966年(昭和41年)1月4日
概要
伝統武術家。捕縄術の研究家。自称甲賀流第14世。「最後の忍者」という異名を持つ。
別名
略歴
1899年(明治32年)8月13日、生まれる[3]。
1905年(明治38年)頃、修験道業者について修行[1]。
1906年(明治39年)頃、千里眼能力者として福来友吉博士に見いだされる[1]。
1914年(大正3年)、早稲田大学、中央大学、明治大学に学んだが、みな乱暴のため放校[3]。
1919年(大正8年)、日本大学宗教科卒業[3]。報知、日々、やまと、国民、中外などの新聞記者をはじめ、柔道・剣道などの師範を兼ねる[3]。
1922年(大正11年)、陸軍戸山学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学の教授を歴任[1]。
1924年(大正13年)、「国本教」を創立[1]。
1936年(昭和11年)、『忍者秘録』発刊[4]
1953年(昭和28年)、「日本武道研究所」設立[1]。
1955年(昭和30年)、『神道夢想流杖術図』を出版。
1965年(昭和40年)、藤田西湖の『図解捕縄術』井上図書版。
1966年(昭和41年)1月4日、永眠[2]
エピソード
- 自称「忍術伝統者の唯一人として現代に生存」[4]
- 自称「甲賀流忍術第14世」
- 国井善弥と親交[4]
- 甲賀流忍術、南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術を継承していたとされる。
- 小田原市立図書館に「藤田西湖文庫」がある[1]。
- 江戸時代末期の水戸学藤田派の学者、藤田東湖を意識した名前かもしれない。
清水豊『忍法の虚と実』[1]より
- 「何かしら不透明な間部のあるのを感ぜざるを得ない」人物。
- 「大正・昭和にかけてイメージが形成されていった様ないわゆる『忍者」といったものは実際的には殆ど存在していなかった」
- 「藤田氏は祖父の新太左衛門(俗名・新之助)から甲賀流を伝えられたとされているが、同氏が十二歳の時に亡くなっている。」
- 「私は「藤田西湖」を武道研究家、忍術家、霊術家の三つの側面から捉えるのが妥当ではないかと考える」
- 「藤田氏は新聞にも広告を出して各地でさかんに忍術の講演会を開いていた。」(大正時代)
- 少年時代に忍者の修行を積み「千里眼」を取得。これが評判になり福来友吉の訪問を受ける。
- 易占を高島嘉右衛門から学ぶ。
- 20歳頃、南蛮殺倒流の橋本一夫斎から指導を受け5年後には免許皆伝。
- 日本の伝統的武道の保存と研究においては先駆的な役割を果たした。
代表作
書籍
- 藤田西湖『忍術秘録』(千代図書院, 1936)
- 藤田西湖『忍術からスパイ戦へ』(東水社, 1942)
- 藤田西湖『神道夢想流杖術図解』(武術研究所, 1953)
- 藤田西湖『どろんどろん』(日本遇報社, 1957)
- 藤田西湖『武芸十八般名称術技略解』(日本武術研究所, 1958)
- 藤田西湖『拳法極意当身殺活法明解』(日本武術研究所, 1958)
- 藤田西湖『秘伝忍術の本』(講談社, 1963)
- 藤田西湖『図解手裏剣術』(井上図書, 1964)
- 藤田西湖『図解捕縄術』(井上図書, 1965)
- 藤田西湖『甲賀流忍者一代記』(東都書房, 1970)
- 藤田西湖『図解捕縄術』(名著刊行会, 1995)
- 藤田西湖 全著作集
- 『復刻版 忍者秘録』想神社 1991頃