「渋谷テアトルSS」の版間の差分
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1951年(昭和26年)12月、定員座席数281の映画館として開館。 | 1951年(昭和26年)12月、定員座席数281の映画館として開館。 |
2020年4月22日 (水) 07:22時点における版
しぶやてあとるえすえす。1951年(昭和26年)12月、渋谷百軒店(道玄坂2丁目)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月にはストリップ劇場に。
概要
渋谷百軒店が繁華街の中心だった1951年(昭和26年)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月にはストリップ劇場に変わっていた模様。ダンサーが日劇ミュージックホールに引き抜かれるなど、ストリップ劇場の中では存在感のある劇場だったようだ。閉館時期は調査中。
別名
所在地
東京都 渋谷区 道玄坂2丁目21
歴史
1951年(昭和26年)12月、定員座席数281の映画館として開館。
1953年(昭和28年)秋、上映した「性映画大会」が成人映画上演ブームのきっかけ[1]。
1960年(昭和35年)4月1日、ストリップ興行を開始。ストリップ映画とショウの2本立て10日替りで[1]。
1960年(昭和35年)8月、休館改造し、ストリップショー一本に[1]。
1962年(昭和37年)6月、ユーモアグラフ6月号の広告に「渋谷唯一のヌード劇場」とある。
1963年(昭和38年)7月13日、『SS・Strip show もみじも裸いろざかり』2部22景が実演[2]。
1964年(昭和39年)7月25日、大映映画「卍」(増村保増監督の若尾文子のヌードの吹き替えに、「セントラルSS」[注 1](渋谷)のパール友子が出演する。[2]。
1965年(昭和40年)2月、『お別れね!マタ開くまで』で閉館[1]。
1977年(昭和52年)、荒木一郎がLP「口紅色の夜想曲」で『テアトルSSのストリッパーから聞いた話より/野良犬』を作る。
エピソード
- 荒木一郎の1977年(昭和52年)のLP「口紅色の夜想曲」に『テアトルSSのストリッパーから聞いた話より/野良犬』がある。
- 「百軒店の中心には『テアトル渋谷』、『テアトル・ハイツ』、『テアトルSS』という三軒の映画館に囲まれた小さな広場がありました」[3]。
- 「1956年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、テアトルSSといった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。」[4]
- 1963年頃、「ハイツの他、テアトルSSというストリップ劇場もあり、ここはストリップ劇場の中では地位の高い名門だったらしい。」[5]
- 1964年頃、「渋谷のテアトルSSというストリップ劇場で踊っていた彼女(五月美沙)をミュージックホールに引き抜いてきたのは橋本荘輔プロデューサーだった。」「引き抜きに遭ったテアトルSS側は反発し、一時はもしかすると血の雨も降るかといった不穏な事態だった」「引き抜きは橋本プロデューサーが独断で行っており責任者の丸尾長顕は外国にいて知らなかった。帰国した丸尾は事態収拾に走った。その結果、金銭トレードのうえ、はじめの二か月はミュージックホールが借り受け、そのあと専属にするというかたちで話がついた。」[6]。
- 「ぼくが大学生の頃(昭和40年代も初めのころ)、『テアトルSS』というストリップ劇場があって、渋谷区本町に住んでいたぼくはバスに乗ってよく通った。その後、SSも消滅し、ぼくも東京を離れ、百軒店との縁は失せた。数年して帰京すると、時たま訪れるこの街は、周囲のラブホテル街に圧迫されて活力を失って、魅力に乏しい街になっていた。」[7]。
- 館淳一の行きつけのストリップ劇場(Facebook, 2014.11.9)。