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1956年(昭和31年)頃、編集長。アメリカ雑誌を見倣い、ビジュアル路線。[[野田開作]]が進駐軍からの古本を持ってくる。 | 1956年(昭和31年)頃、編集長。アメリカ雑誌を見倣い、ビジュアル路線。[[野田開作]]が進駐軍からの古本を持ってくる。 |
2019年9月30日 (月) 13:53時点における版
みやさか しん、1928年(昭和3年)-
概要
編集人。仕掛人。
別名
略歴
1950年(昭和25年)頃、法政大学を卒業後、「東京」という芸能雑誌の編集に携わる。
1953年(昭和28年)頃、誠文堂新光社に行った時に、石坂幸男に給料12000円で三世社に引き抜かれる。当時初任給8000円。『実話雑誌』担当。
1956年(昭和31年)頃、編集長。アメリカ雑誌を見倣い、ビジュアル路線。野田開作が進駐軍からの古本を持ってくる。
1957年頃には『実話雑誌』は10万部の雑誌に成長。「実話」ブームとなり「実話と秘録」「実話特報」「実話情報」
1959年(昭和34年)、三世社から『週刊モダン日本』創刊。
1972年、独立してサン出版を新宿本町にて創業。
エピソード
- 週刊新潮の立ち上げにも参加。新田敞(しょう)という後の新潮社常務から頼まれる。週刊新潮の「黒い事件簿」は実話雑誌の流れ。
- 1979年(昭和54年)頃、宮坂信は撮影現場に必ず同行し陣頭指揮をとっていた[1]。