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画家。写真家。緊縛師。風俗考証家。舞台装置家。演劇評論家。 | |||
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2010年4月14日 (水) 07:50時点における版
いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日
活動内容
画家。写真家。緊縛師。風俗考証家。舞台装置家。演劇評論家。
別名
Seiu Ito, 伊藤一(本名)
略歴
1882年(明治15年)、東京市浅草区に生まれる。
1890年(明治23年)頃(8歳)、琳派の絵師に弟子入り。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の臭いに執着する性癖が発現している。
父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
25歳から新聞社に勤め挿絵や評論を書く。27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚をする。包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。
34歳でお葉をモデルに責め絵を描く。37歳で最初の妻と離婚、二人目の妻をめとる。この女性は晴雨の責め絵のモデルにもなっており、妊娠中に吊り責めを受けるなどしていた。だが、13歳若いこの女性は後に浮気をして晴雨のもとを去る。
1923年(大正12年)、関東大震災により財産を失う。『いろは引・江戸と東京風俗野史』を出版。
1928年(昭和3年)、『責の研究』は発行。発禁処分。
1931年(昭和6年)、三人目の妻が精神を病み闘病、借金に追われるようになる。
1945年(昭和20年)、東京大空襲で家財一切を焼失。
1953年(昭和28年)6月4日、市川市鈴木演芸場で「責めの劇団」の第1回公演[注 1]。7月11日文京区東片町中村座で第2回公演[注 2][注 3]。
1960年(昭和35年)、挿絵画家としての功績に対し出版美術連盟賞を受賞。
1961年(昭和36年)、死去。
エピソード
- 高橋鐵は伊藤晴雨を「お江戸の熊楠」と呼んだ[1]。
- 『演芸画報』に舞台スケッチと共にエッセイ、レポートを掲載していた[2]。
- 喜多玲子こと須磨利之と3年にわたり書簡を交換していた[1]。
- 濡木痴夢男は『いろは引・江戸と東京風俗野史』を愛読し、ここから題材を得て、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』を書いた[2]。
- 上田青柿郎は伊藤の流れをくむ緊縛師。
- 月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』を参考に妻を吊して写真にする。
代表作
- 『いろは引・江戸と東京風俗野史』(1923)
- 『責の研究』(1928)
- 『美人乱舞』(1932)
- 『責の四十八手』(粹古堂, 1951)
- 『「責めの劇団」について』KK通信1953年(昭和28年)第13号
- 『新版・美人乱舞』(粹古堂, 1954)
- 伊藤晴雨『晴雨流女の縛り方』風俗奇譚1961年(昭和36年)4月号
晴雨を扱った雑誌・書籍
- 『責めの美学 伊藤晴雨の緊縛指導』(エド・プロダクツ, 不明)
- 福富太郎・編『伊藤晴雨 自画自伝』(新潮社, 1996)
- 『伊藤晴雨・晴雨秘帖』(二見書房, 2002)
- 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
- 『美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌』(弓立社, 1997)