「団鬼六」の版間の差分

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1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。
1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「奇譚クラブ」に傾倒する<ref name="net">[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]より(2010)</ref>。
1955年(昭和30年)、関西学院大学卒業と同時に上京、映画雑誌『スターストーリー』に入社。夏には退社し日劇ミュージックホールの照明係等、職を転々<ref name="net"></ref>。


1958年(昭和33年)、[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に応募。「お町の最後」で7月号に掲載。
1958年(昭和33年)、[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に応募。「お町の最後」で7月号に掲載。
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1959年(昭和34年)、[[賀山茂]]と交友を始める<ref name="HP">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。
1959年(昭和34年)、[[賀山茂]]と交友を始める<ref name="HP">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。


1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で[[奇譚クラブ]]に。
1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で[[奇譚クラブ]]に。神奈川県三浦半島の三崎に移る<ref name="net"></ref>。
 
1963年(昭和38年)、『花と蛇』再開。団鬼六の名で。板倉三枝子と結婚<ref name="net"></ref>。


1963年(昭和38年)、『花と蛇』再開。団鬼六の名で。板倉三枝子と結婚<ref name="net">[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]より(2010)</ref>。
1965年(昭和40年)、テレビ洋画制作会社に入社するため再度上京<ref name="net"></ref>。[[山邊信夫]]と共に『花と蛇』を制作<ref group="注">東京企画。主演は紫千鶴。監督は[[山邊信夫]]の変名である岸信太郎。</ref>。


1965年(昭和40年)、[[山邊信夫]]と共に『花と蛇』を制作<ref group="">東京企画。主演は紫千鶴。監督は[[山邊信夫]]の変名である岸信太郎。</ref>。
1966年(昭和41年)、テレビ洋画制作会が倒産し、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到<ref name="net"></ref>。


1966年(昭和41年)頃、[[賀山茂]]に[[谷ナオミ]]を紹介する<ref name="HP"></ref>。
1966年(昭和41年)頃、ピンク映画会社の社長の紹介で谷ナオミと出会う<ref name="net"></ref>。[[賀山茂]]に[[谷ナオミ]]を紹介する<ref name="HP"></ref>。


1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にアパートを借り、鬼プロを設立。[[たこ八郎]]が住み込み。
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にアパートを借り、鬼プロを設立。[[たこ八郎]]が住み込み。
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1972年(昭和47年)、[[SMキング]]創刊。
1972年(昭和47年)、[[SMキング]]創刊。


1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開<ref group="注">主演は[[谷ナオミ]]。監督は小沼勝。緊縛指導は[[浦戸宏]]。</ref>。[[SMキング]]廃刊。
1973年(昭和48年)、鬼プロの社員数が8人になる<ref name="HP"></ref>。
 
1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開<ref group="注">主演は[[谷ナオミ]]。監督は小沼勝。緊縛指導は[[浦戸宏]]。</ref>。[[SMキング]]廃刊し鬼プロも解散<ref name="HP"></ref>。


1977年(昭和53年)、奥沢に転居。大岡山に仕事場を借りる。
1976年(昭和51年)、日劇ミュージックホールに出演した谷ナオミのショーを演出<ref name="HP"></ref>。
 
1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居<ref name="HP"></ref>。大岡山に仕事場を借りる。


1980年(昭和55年)、横浜の桜木町に転居。
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町に転居。


1983年(昭和58年)、最初の妻と離婚。
1982年(昭和57年)、鬼プロ再結成<ref name="HP"></ref>。
 
1983年(昭和58年)、最初の妻と離婚。鬼プロ再解散<ref name="HP"></ref>。


1984年(昭和59年)、鬼プロ解散。宮本安紀子と再婚。
1984年(昭和59年)、宮本安紀子と再婚。


1986年(昭和61年)、桜木町の旅館を買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン
1986年(昭和61年)、桜木町の旅館を買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン

2010年3月17日 (水) 13:14時点における版

団鬼六 (1931- )

だん おにろく、1931年(昭和6年)4月16日 -

活動内容

文筆家。仕掛人。

別名

Oniroku Dan、黒岩幸彦(本名)、花巻京太郎、淡路周五、黒岩松次郎。

略歴

1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる[1]

1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学。

1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。

1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「奇譚クラブ」に傾倒する[2]

1955年(昭和30年)、関西学院大学卒業と同時に上京、映画雑誌『スターストーリー』に入社。夏には退社し日劇ミュージックホールの照明係等、職を転々[2]

1958年(昭和33年)、奇譚クラブの懸賞小説に応募。「お町の最後」で7月号に掲載。

1959年(昭和34年)、賀山茂と交友を始める[3]

1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブに。神奈川県三浦半島の三崎に移る[2]

1963年(昭和38年)、『花と蛇』再開。団鬼六の名で。板倉三枝子と結婚[2]

1965年(昭和40年)、テレビ洋画制作会社に入社するため再度上京[2]山邊信夫と共に『花と蛇』を制作[注 1]

1966年(昭和41年)、テレビ洋画制作会が倒産し、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到[2]

1966年(昭和41年)頃、ピンク映画会社の社長の紹介で谷ナオミと出会う[2]賀山茂谷ナオミを紹介する[3]

1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にアパートを借り、鬼プロを設立。たこ八郎が住み込み。

1969年(昭和44年)5月、鬼プロ制作『女極道色欲一代』が公開[注 2]

1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。

1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。三崎から家族を呼ぶ。

1972年(昭和47年)、SMキング創刊。

1973年(昭和48年)、鬼プロの社員数が8人になる[3]

1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開[注 3]SMキング廃刊し鬼プロも解散[3]

1976年(昭和51年)、日劇ミュージックホールに出演した谷ナオミのショーを演出[3]

1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居[3]。大岡山に仕事場を借りる。

1980年(昭和55年)、横浜の桜木町に転居。

1982年(昭和57年)、鬼プロ再結成[3]

1983年(昭和58年)、最初の妻と離婚。鬼プロ再解散[3]

1984年(昭和59年)、宮本安紀子と再婚。

1986年(昭和61年)、桜木町の旅館を買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン

エピソード

代表作

『花と蛇』

自伝

引用文献

注釈

  1. 東京企画。主演は紫千鶴。監督は山邊信夫の変名である岸信太郎。
  2. 「中川プロ」制作との記述もあり。配給はミリオンフィルム。監督:伊世亜夫。出演:里見孝二 水咲陽子 林美樹 長岡丈二 江島祐子 冬木京三 九重京司 三重街竜 園あけみ。
  3. 主演は谷ナオミ。監督は小沼勝。緊縛指導は浦戸宏

つながり

吉田稔 須磨利之 辻村隆 賀山茂 山邊信夫 谷ナオミ 杉浦則夫 たこ八郎 有末剛

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